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長文置き場

金カム218話「砂金掘り師たち」感想

わりと面白いんですけどなんか集中出来ないので、今回も別に長文になるような感想はないかな…と思ったんですが、集中出来ない理由を自分なりに考えて整理しとこうと気が変わりました。(よくあること)
一応今週の話の感想としましたが厳密には「このタイミングで思ってる最近の漠然とした感想」みたいな感じで砂金の話はあんまりしてないです。そして主人公陣営(特にアシリパ)に厳しめな内容になってしまったので、マイナスな意見が我慢ならない方は閲覧をご遠慮ください。

北海道に戻って心機一転、まるで第一話からの展開に戻ったような砂金掘りのお話。なんかめちゃくちゃ不気味だしなんで? ゴースト?と話の先は普通に気になるんですが、それはそれとして端々の発言で頭を掠めるここまでの蓄積への引っ掛かりが私の心の川を汚しています。(別に元々清流じゃないだろ)
相変わらず一般人と見做した人間には「やさしい」と驚かれるほどの気遣いを見せる杉元。自分は死にかけるような傷を無数に負っていても、小さな傷に対して「大丈夫か?」と心配する度量を見せる。しかし敵と見做した人間には躊躇なく刺し貫く恐ろしい切り替えの早さがある、という一面が辺見や偽アイヌの“やさしさ”で繰り返し描かれてきました。
その“裏切りのような残酷さ”がなぜ心情として許せていたかというと、「1.相手が囚人で極悪人」かつ「2.金塊を追う譲れない目的が杉元にある」かつ「3.やられなければこちらがやられる」かつ「4.杉元がどれだけ残酷になろうとそれは“不死身の杉元”という個人が自分の意思で勝手に起こす行動に過ぎないから責任も罪過も彼一人に帰属するものでしかない」といういくつもの“道理”があったからです。
しかし仲間として長期間旅を共にし、かなり世話にもなった鯉登少尉がとうとうその“スイッチ”の餌食になった事が、今の杉元の立場への拭えない疑問を残している。
確かに“金塊を追う”立場上、鶴見側として目の前に立ちはだかった鯉登は敵と言えるでしょう。でも金銭面で多大な恩があるし、一理あることを言うような人間だとサーカスの時の会話で知っているし、彼は自分の立場に則った行動をしているだけだし、杉元が「だから構わないのだ」と言語化した「(どうせ死刑になる運命の)痛みすら感じないような極悪人」ではなかった。ここで先に挙げた1個目の道理は潰れる。
その上で、金塊という目的が譲れないからこそそういう欺瞞を引き合いに出す必要があった、しかしそもそもその金塊に対する動機自体が揺らいでいる…という事が白石に追及された際の反応で描かれた。二百円の事は頭にある、あるけども、という迷いが既に杉元の中には生じており、「カネカネうるせえんだよお前は!」と白石を責めてビンタする始末。カネが必要なんだ、と言ってどんな汚い事でもすると決意したあの日の杉元のなりふり構わぬ決意は既に彼の中に無い。いや、競馬場の「俺があの子にそんな事言うと思ってんのか」の時点で実は既になり振り構わないとは言えなくなっていたのかな。でも相棒としての義理を通す事で反面“宙に浮く”梅ちゃんの事情は、明文化されないが故にぼかされていた。その保留されていたどっち付かずの態度があの問答で浮き彫りになった。
金塊を追う目的が「考えてはいる」と先延ばしに出来るようなものでしかないのなら、それを叶える手段の正当化のために用いられていた欺瞞についても当然問われ直さなければならなくなる。
カネが絶対に必要で、自分のカネの使い道は親友の遺言と惚れた女のためで、だから私欲のために罪を犯して金塊争奪戦に関わっているような極悪人の皮なんかひん剥いたっていい、人間性が違う、気兼ねなく殺せる。その「誤魔化し」を許させていた、選択の余地のない動機の切迫性というものが最早形骸化しているのならば…。
これで2個目の道理も潰れる、で、あの時の鯉登は銃を構えながら不用意に近づいただけで、杉元は死んだと思っていただろうしアシリパに危害を加える立場でもないから、杉元自身が死にかけていたとしても鯉登という人間に限って言えばやられなければやられる状況だったと言えるほどの緊急性も無かった。
これで3個目の道理も消える、そして4つ目。これが現在進行形で判断をつけ兼ねてる問題です。
以下アシリパの話にシフトしますが、先週の発言で彼女が「土方陣営と鶴見陣営の刺青人皮を奪うしかないのでは?」と、“陣営”という単語を使った事が個人的にわりと衝撃でした。今までの彼女なら使わない単語だと思った。父が始めた争奪戦のキーとして大人の戦いに混じる中立の子供、ではもう明確にない。一つの陣営として金塊争奪戦に参加して、他の陣営を積極的に出し抜く意欲が無ければ出てこない言葉です。
だとして、改めて「自分は“盾”で杉元は“矛”となってこの争奪戦を勝ち抜こう(己のポジションは特例により変動可)」という考え方はちょっとひどいんじゃないかと思った。
さっさと鶴見に金塊渡しちまった方がアシリパさんのためだと一人で決めてかかっていた杉元に「恋人でも嫁でも娘でもねえのに」と白石がその行き過ぎた干渉を詰っていましたが、アシリパにとってもそれは同じことで、杉元は「恋人でも旦那でも父でもない」。二百円という目的が「俺たちだけで見つける」以外の道でも叶う望みがある以上、杉元がアシリパの道行きに付き合う事には少なからず「アシリパのため」という理由が入る。だとするとアシリパにも、アシリパ自身の目的に杉元を付き合わせている責任、というものが大なり小なり生じる筈だと思うんですよね。恋人でも旦那でも父でもないけど利害が一致しているために共に戦ってくれる杉元、そんなあくまで他人であるはずの杉元を、今のアシリパの考え方はあまりにも“利用しすぎ”ているものなんじゃないだろうか?
金塊の鍵は思い出したけど伝えないでいておけば杉元は私から離れられないから盾になれる。その間杉元に矛をやらせるわけですよね。こないだの感想で「それは杉元の命を守ることにはなるが心を守ることにはならない」と評しましたが、そもそも杉元が二百円にこだわっていたのも“罪滅ぼし”という側面が大きい。地獄行きだと開き直りつつも、それは開き直らざるを得ないような罪の意識があることの裏返しなわけで、究極的には「犯し続けている罪を打ち止めにしたい」から金塊で運命を変えようみたいな心理で杉元は動いてるんだと思うんですよね。そんな彼の存在を、戦い続けさせた上で「いざという時は共に地獄に落ちよう」という結論を出す事には、「最後まで使い切ろうとする」ような非道さがあるように感じられてならない。杉元が魂が抜けるまで戦う必要は二百円さえあれば本来無くなる筈なんですよ。
でもやっぱり俺たちだけで金塊を見つけよう!と再スタートした結果、杉元は恩人の鯉登を刺すという前述の道理の一線を越えた凶行に至るわ、シージャック犯になるわ、ヒグマのケツに銃を刺してかつての某囚人のような変態に成り下がるわギットギトに汚れていく一方じゃないですか。土方陣営と鶴見陣営から刺青人皮を奪うとして、それも結局杉元がやる事になるんでしょう?
で、今週一番引っかかったのは、「あの白いクマをちゃんと送ってあげる前に流されてしまったから、山の神様に嫌われたかな」という杉元の発言への「…どうだろう」というアシリパのリアクションの薄さなんですよ。
白いクマの事も「いいんだ」と率先してあっさり諦めたのはアシリパでした。確かに重症の杉元と凍死寸前の白石に引き換えられるものではない。でも「地獄に落ちる」ことも、本来丁重に送らなければならない筈のクマを「カネのために失礼な方法で殺した上できちんと送れなかった」ことも、アシリパにとっては「道理があれば仕方ない」と割り切れるようなものでしかないのだろうか?
「人を殺したくない、人を殺せば地獄に落ちる」というのも「カムイを丁重に送ってまたこの世に来てもらう」というのも、アイヌの信仰に則った考え方であるわけで、そこを疎かにする“忌避感が存在する”ってことが“信じている”って事だと思うんです。
杉元の「人を殺せばなんとかっていう地獄に落ちるって言ってたよね? 信心深くないアシリパさんはそれをどう解釈してる?」という問いかけは非常に良い質問でした、私も是非そこが聞きたかった。アシリパがこの争奪戦に参加する資格があるか、参加するべきでないかの分水嶺はそこだったと思うから。
その上でアシリパの出した答えは「道理があれば落ちる覚悟がある」だった。でもそうなると、そもそもの争奪戦に参加しようと決意したところの「アイヌの文化を守らなければ」という動機自体への疑問がわく。
アイヌという存在は守りたいけどアイヌという考え方は守らなくてもこの際仕方ないというのが今のアシリパのスタンスですよね。アイヌの思想を真実だと感じている“感覚”はそこには無いわけでしょ? だとすると地獄に落ちるかもしれない修羅道を進み、最悪杉元がいずれ手遅れになったとしても追うと決めた「アイヌを守りたい」というその思いの源というのはどこにあるの? 結局それは“アイヌとして”というよりはやはりウイルクの娘として、キロランケに託された立場として、杉元とのこの旅の帰結として…というような、個人的な関係の延長線上にあるものでしかないんじゃないの? 文化を残すとして、信仰を伴わない、実感を伴わない思想にどれほどの真実性があるのだろう? 確かに知識は教えられて備わっているけれども、アイヌの考え方への信仰心、という意味ではアシリパより杉元の方が余程強いように見える。トゥレンペの時からそういう描写はされていたけど、今回の白クマの件への言及といい。
少なくとも今の杉元はアシリパが「いざという時は地獄に落ちる覚悟だ」と“そこを犠牲にできる”と感じている、なんてことは全く想像してないわけでしょ。地獄に落ちるようなことはすべきでないというアイヌの信仰心(忌避感)は持ったままそこを守ろうとしているのだと信じてるわけで、そこのすれ違いってすごいでかいと思う。そこが最後の一線だと杉元は感じてるわけじゃん。そこ行っちゃったらもう戻れないから、って。そこを守ってくれることが、汚れに汚れて傷付いて魂抜けて終わるかもしれない危険を冒しても自分は構わないという杉元の覚悟にとっての必須条件なわけでしょ。ここ最近のアシリパの考え方と動向はその想いに報いているとは言えないと思うんだよ。で、その上で次々と杉元の手は実際汚れていってるから、良いんかいこれで? 思想は自由でも罪穢れは消えないのやで?とどうしても気になってしまうという。
尾形風に言うと「親たちの想いに応えて極東連邦国家の夢をもう一度か? 一発は不意打ちでブン殴れるかもしれんが和人相手に戦い続けられる見通しはあるのかい? 一矢報いるだけが目的じゃあアンタについていく杉元が可哀想じゃないか?」という感じ?
数週間前ぐらいにTwitter上に置いてある匿名質問ツールに「最近アンタ見当はずれなアシリパさんへの批判多すぎ!尾形が片目失くした恨みでアシリパさん叩いてるんでしょ!調子乗んじゃねえ!」という感じのアシリパ派の人らしき複数名からのポストが立て続けに届き私が袋叩きに遭うという惨劇が起きたんですが、私は強いて言えば“杉元が可哀想だから”アシリパへのツッコミどころを言語化していたんであって尾形は関係ないんですよね。尾形があの時言ってたことは一理あるという主張と、あの一連の流れでのアシリパの尾形に対する態度に関しては別におかしな所はなかったと思うという考えは両立するんですよ。
で、私のこの話が全く通じない、全然そう思わない、お前は何を言っているんだとマジで思って匿名で物申してくるような人間が少なくとも複数名確実にいるという事実が、「私が気になっている諸々の箇所は、実際原作でも今後否定するために敢えて描かれた露悪というわけではないのかもしれない」という懸念を急速に強めている。

ゴールデンカムイという作品がこうやって色々考える余地があって面白いのは、一人の人間の考え方があったとして、それを否定する考え方を提示する別のキャラクターが現れるところにあると思ってます。
そういう存在の筆頭が尾形だったんですよね。さっき例に挙げた土方への問いも、鶴見への「たらしめが…」も、杉元への「皆殺しにしやがった。おっかねえ野郎だ」も、谷垣への「色仕掛けで丸め込まれたか?」も、「大方金の使い道で揉めたんだろう」というウイルクとキロランケの決裂に関する身も蓋もない見方も、アシリパへの「自分は手を汚さない偶像に収まるつもりか」という問いも、勇作への怒りの発露も。
私が尾形に「やるじゃん」と思った数々の態度が“どういうものなのか”を一言で表すならば、要するに尾形は何かの“役目”が自分にあると思い込んで一部の他人にとっては不利益を齎すような何かをした、或いはしようとしている相手に「それって自己満じゃね?」という疑問を呈する男なんですよ。ことごとく。
お前の主張は分かったが周りの或る人間はそう思っていない、そいつから見たらそれは迷惑で勝手な行いに過ぎない場合もある、と突きつける。それは尾形自身がずっとその「爪弾きされたその他」側だった半生から来ている視点でもあるのでしょうが、私はその考え方ってけっこう同意出来るんです。それで幸せになるのはお前の贔屓してる一部の集団だけだろっていう冷えた視点が。
こないだ白石がキロランケの日露に参戦した想いを「少しでも多くのロシア人をぶっ殺してやろう」と思ったに違いないという解釈をぶち上げて物議を醸してましたが、あの発言における主眼は“実際そうだったかどうか”という事ではなくて、キロランケの革命に向かう姿勢がトータルで傍から見ると「(そういう推論すら出来てしまう程の)“行動を起こしている自分”になる事が目的なだけの自己満足」に過ぎない、という“キロランケの偶像化を否定する視点の提示”だったと解釈している。
実際私もキロランケがキャラとして「タイプではない」理由の一番大きな部分が、『革命』を“目指していた”のは事実だけどでは“実際に出した結果”はどういうものがあるの?と考えた時に、やってる事が甘すぎるという点にある。
皇帝殺しにビビッて失敗した若き日に始まり、ウイルクの容赦のない行動力に憧れながらも革命家としてはずっと二番手の補佐、決裂したウイルクを尾形の手を借りて殺しその娘を連れて樺太に赴き少数民族の現状を見せ自然とカギを思い出すことを待ちつつ、事故で刺してしまった女の怨恨から復讐され志半ばで死亡。そこで致命傷を負うことになったキッカケも、敵を殺す前の極度の緊張状態の中鳴いたアザラシの鳴き声にビビッて不意打ちに失敗したのが原因なので念が入っている。
強いて言えばアシリパが実際鍵を思い出せたことが“出せた結果”であり、この旅は無駄ではなかった=結果が出せたと満足して死んでいったんですが、杉元からしてみれば一連のキロランケの行動はまだ子供のアシリパさんを巻き込んで「戦わなければならない」という選択肢に追い込んだものでしかなく、アシリパが「道理があれば…」という結論を出してしまった今それは事実になってしまった。キロランケが連れて行きさえしなければアシリパは「干し柿を食べていつか杉元も戻れる」と願ってくれた無垢な少女のままだった。そういう違う側面で捉えられる余地のある結果が“集大成”となると、革命という観点から言えばかなりささやかな結果に終わったという印象を持たざるを得ない。「“キロランケは”満足して死んだ」という事実、残った結果はそれ以上でも以下でもない。
でもそれはそれでいいんですよ。御大層なこと言って結局自己満じゃねえかと突っ込める要素がそこにあったとしても、彼はそこに全力投球してその報いとして死んだ。死ぬ以上の責任の負い方は無いわけですから。
最近の展開で、漫画作品における群像劇というものの限界を勝手に感じています。主人公がキモいなんて新しい!とか言ってわりと杉元のツッコミどころのある考え方も悪役として肯定的に見てたけど、主人公側の面子全員共感できないとなるとキツい。何故かと言うと彼らは退場しないことが確定しているから。
色んな考えの登場人物が居て、お互い相反する関係性が出来て争う…それは群像劇の醍醐味だし実際見てて面白い。
しかし馬券が当たらない方がアナタにとっては良いのでは?と「杉元が必ずしもアシリパに付き合う必要は本来無いのだ」という視点を持ち込んだインカラマッは刺されて離脱したし、「お前は自分は殺人に関係ないみたいな顔してるが違うんじゃないか」という視点を持ち込んだ尾形は片目無くして離脱したし、「民族の一員である以上革命と無関係ではいられないんだ」という視点を持ち込んだキロランケは死んで退場した。他者とぶつかり合う個別の思想に殉じたところで、脇役ならばそうやって退場の可能性がある。
しかし主人公だとそれが無い。これが小説や映画なら完結と共に世に出るので主人公にも等しく他の登場人物と同じ“退場”の可能性があるけど、長期連載となるとそうはいかない。最後まで出演が確定している、つまり否が応でも“特別な語り部”としての役割を担う側面が主人公にはある。
やっぱりアシリパはヒロインというより主人公だったんだなと最近しみじみ思います。物語の“視点”を杉元と分担していた。殺しのブレーキのいまいち弱い杉元に対しそれはダメだと諫めつつ、殺し合ってまで求められる呪われた金塊という存在自体を問う、民族的文脈で言語化可能な善良な価値観を持った娘。しかしそうした抑止力、秤の担い手としての役割を彼女は既に下りた。
始まりの動機が父親の喪失で、その父親がのっぺらぼうなのが初めから決まっていた以上はこれは既定路線なのかなとは思いますが…しかし不動の一軍の語り手の思想が偏っているというのは物語を追う上でわりと辛いものがある。信頼できる語り手をくれぇ!という気持ちになる。画面上に「こいつは信用できるな」という登場人物が誰も出てくれない不安。
白石も一緒にいる理由がどこまで行っても最終的に成り行きでしかないのに最近妙に踏み込んだ発言するし、杉元とアシリパの劇場をかぶりつきで見たい人かなんかなのかな?という感じするけど、脱出に成功してからこっち「そんなんで金塊に手が届くかよ」とダメ出ししっ放しでどういう温度なのかよくわかんないし。
ヴァシリもマジで尾形に会いたい一心で一言も喋らずこんな所まで来ちゃって、そろそろ「正気かお前」という気持ちになってきた。モノローグすら無くなっちゃったけどちゃんと色々考えてるのかな? 大丈夫?
で、白石が調子よく「仲間」と称したそんな今の一味を「いや…『烏合の衆』」と訂正した杉元は、相変わらず自分たちの現状に対する認識に関しては矢鱈と冷静な男。白石のダメだしが尤もであること、自分はアシリパにとって金塊の鍵を教えられない立場でしかないこと、尾形を目的についてきているヴァシリを戦力として都合よく利用しているだけなこと。それらを分かっているのが分かるからこそ、そこに“甘んじている”その心情の根っこが分からない。いざという時の判断の予想がつかない。
そして金塊を追うに際して存在するそういった諸々の歪みを一旦置いておくような、砂金による一攫千金話が始まってしまったわけじゃないですか。50円稼いだ、とか言われると否が応でも×4で杉元はゴールじゃんという発想が浮かぶでしょ。そしたらもう誰も殺さなくていいんだよ。もうすごいモヤモヤする。すぐそこに破滅が迫っている気もするし全然迫ってない気もする。

尾形はまだ私の中では信頼できる男なので出てくると嬉しい。船長を銃で脅さざるを得なかった杉元一派に対し、尾形は棒鱈だけで無賃乗船できて船長は良いことしたという認識しか残らないWin-Winの方法(尾形が乗ろうが乗るまいが船は出るので誰も損をしない)で一人帰還した手腕に「やるじゃん」と見直したし。
それ自己満じゃないの?という、結果が出るのはまだ先な活動に邁進する面々の中で、尾形は良かれ悪しかれその都度必ず結果を出す男です。何かの状況を変えなければならないとして、一人で出せる最大限の結果を実際出してしまう。殺鼠剤盛れてしまうし弟は撃ててしまうし父親は殺せてしまう。兵が沢山無駄に死ぬだけで非効率だと感じれば実際狙撃部隊の編成を上申する積極性があるし、狙撃能力が必要なら実際最高レベルで身につけるし、もうなんかとにかく必要が生じたらトライアルアンドエラーで実際どんなことでもやってしまう。一人の意思で行動し、その道理に即した自分の行動の責任をとるためならば死んでもかまわないとマジで命を投げ出してしまう。ある意味尾形もバーサーカーみたいなもんかもしれない。
杉元はそういう不合理な状況に精神の面では流されて流されて、でも肉体はメチャクチャ強いので肉体が結果を出す。尾形は肉体は普通だけど精神がメチャクチャ強いので精神が結果を出す。本質的な性格は杉元は超ネガティブで尾形は超ポジティブという感じがする。
殺してみろ俺は不死身だと正当防衛的に皆殺しにする杉元と、殺される前に一人だけいきなり殺す尾形みたいな。尾形が殺す人間を杉元は絶対殺さないけど、杉元が殺す人間を尾形は絶対殺さない。殺害に至るプロセスが真逆。ただ出す結果は真逆なんだけどどっちも爪弾き者なので視点は共通している感じ。だから同じものが見えてる以上は案外気が合うような気もする。どちらかと言えば水と油になってるけど。

でもそうやって尾形が(個人的に)信用出来るキャラだったとしてもさ、前述の通り語り部たる主人公が中立から抜けて明確な一角の立場を持った以上、そこに疑問を差し挟んだ立場の登場人物の意見というのは今後否定されるだけのものでしかないのだろうか?
主人公の正義と真っ向からぶつかるような別の正義を持ち込む登場人物が初めから登場しない作品よりも、登場した上でその正義が正義と扱われずに終わる作品があるとしたら、それはともすれば期待・応援させない前者よりもある面では罪深いのでは…という考えが最近浮かんできて…面白いです。(結局面白いんか~い)