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長文置き場

金カム228話「シマエナガ」感想

すみません読めば読むほど今週の話めちゃくちゃ好きです、個人的に五指に入る神回でした。
もう杉元が全編かわいそうで読んでて笑いが止まらなかった。かわいそうっていうのは同情するとか、悲しく思う「かわいそう」じゃなくて、うわあ~~~^^っていう、なんだろうな、同じところをグルグル回るマウスを「頑張ってる頑張ってる」と微笑ましく眺めながら実験結果に不可と書き込むような…あらら~~~^^みたいな、わかりますか?(そんな感情をわからせようとするな)
私はけっこう真面目な人間なんですが、真面目であるからこそ、どうしても不謹慎ネタに弱くってですね…笑ってはダメな滑稽さほど笑ってしまうんですよ。これは別に同意して欲しくて言ってるんじゃないので話半分に捉えて頂きたいんですけど。
物語の始めで「カワイイ…目が可愛い」と一番愛着を抱いたシマエナガの目を「京都で食べた雀の焼き鳥がこんな感じだった」と飢餓の極限状態の中記憶をフル動員して左右串刺しにするところなんかエグすぎて最高だった。
とにかく「ふいいいいい~~~~ごめんなさいごめんなさい」のセンスがすばらしい。初見ドン引きして私の笑いが引いたところを含めて何度見ても面白い。
ふいいい~~がいいよね。歯を食いしばって息苦しくて胸が詰まってどうしようもなく心傷つきながら、可愛がってたその心の拠り所の毛をブチブチブチブチむしる狂気っ…!!
でもそれは"わかる"狂気だからツボったんです。杉元は本当に申し訳なく、辛く思ってるんですよね。ごめんねえごめんねえって、せめて痛くないようにって思いながら、手が震えちゃって神経抉ってしまって余計苦しませて号泣みたいな、そういう類の惨めさ哀れさがあってすっごいエモ~~い!人間は無力~~~

ラブリーなシマエナガと心を通わすに際して出た態度なのか「ひえ~~~ずいぶん滑り落ちてしまった…」「ごめんごめん君がいたね」とか妙に暢気なゆるふわ口調で、小さな子どもに話しかける穏やかな先生みたいな口調の杉元。そう、姉畑先生のような…
でもそんなミルキーな口調の端々で「俺の銃剣は人の指だって切り落とせちゃうよ」「おのれもガツガツ食ってたくせに!!羽をムシって食っちゃうぞ!!」とか物騒さが覗くのがジワジワくる。
追い詰められるごとに「え?なに?」とシマエナガからのレスポンスを受信し始めるところもナチュラルにやばい。そう、平太師匠のように…

元々杉元って、口数の多い男ではあるんですよね。そしてその口数の多くなり方がすごいリアルだなと思ってて。「ふい~~~こいつはヒンナだぜ」とアシリパと別れてから一人でニシン蕎麦食レポした時の感じとか、今回とか、なんかこう"文脈を手に入れた"ら途端にその文脈において物凄く饒舌になる感じ。この場合はこういう考え方をすればよく、それはこういう理由があるからで、こう言っておけばその文脈に適合する、というコンテクストを"手に入れた"らどこまでもそこに迎合しようとする。そうすることで安心できる、逆に言えばそう出来なければ安心できないので、その文脈で処理できない事に関しては途端に寡黙になる。
実際そういう選ぶ単語も選ぶ命題も答えの出し方も全部誰かが既に言ったことを板書して復唱するだけのレンタル人間というのはどこにでも居て、それはある種自分に自信が無いから=信用できる"自分"が無いのでより正しい指針を外に求めるから、という『結果責任を重んじた真面目さ』と見る事もできるが、根拠のないオリジナル文脈でトライアンドエラーを試みることをしない『卑怯さ』と見ることもできる。
何よりそうしたパッチワークみたいな精神構造の人間の不気味なところは、出力の大部分を外注する分、その発注先の選定にものすごいエゴイズムを発揮するところ。一度この"素材"は"使える"と信用したらとことんそこに順応し同一化しようと貪り始める。
勿論これは誰にでも大なり小なりある普遍的な要素の話をしています。ただその傾向の強弱、ストッパーの弱さ、そうした意味において限りなく極値(と私が感じる)、そういう人は本当に"結構"いる。そういう「こういう奴いるいる」という感覚において杉元という男の人間性はとても身近に感じる。
基本的に依存体質なんですよね。頭は悪くないのに自分で考える規格がない。寅次は自分の考えを持ってる男でした。梅子の目の話、そこへ抱く感情、解決策の模索、米国にその活路を見出しつつ社会情勢も考慮する先見性。あの塹壕の中での会話だけで寅次の個人としての考え方の傾向性がたくさん窺える。しっかりとした社会性のある冷静で勤勉な人だという印象。対して杉元単体としてあの会話で示したのはその考えに対する"同意"のみ。
その同意っていうのも多分そこに関しての自分の意見というものは杉元には無くて、自分をその問題における主体者と設定していない、できない。寅次がその考えと素材を示したことで、その考えと素材をそのまま自分にペーストしただけ。「そうだな」と思ったから自分の考えもそうだと自然に思っているだけ。自分始まりでは何も考えていない。寅次がするはずだったことを、そのキャストに穴が開いたので自分がやらなければと収まっただけ。その考え自体への判断や是非や問いを向ける"視点"はない。
でも常にそうなのではなくて、杉元はただシンプルに「自分がどうなのか」ということしか自分からは考えられないんだと思う。俺がどうなのか、俺はどうなのか。それはある意味で真理であるので、誠実といえば誠実な感性かもしれない。
土地、民族、政治、色んな思想を語る登場人物が居るけど、基本的に大きい問題に関して杉元がとれるスタンスは、自分以外の誰かが考えたそれに同意するか同意できないか、それだけ。
彼個人のオリジナルの考えは、個人で経た体験から得た個人にとっての"感覚"に限定される。言いようのない罪悪感。言いようのない嫌悪感。言いようのない嬉しさ。言いようのない怒り。態度を選択する以前の、外部に露出する前の、客観と断絶した〝彼にとって何かがどうであるか"という純粋な主観。
その延長で大枠的な問題を語ろうとすれば今回のように素朴な、結論を出さない"雑感"になる。自分から見てこうだからこうだと思うという、フワッとした、そんなような気がするみたいな、根拠不要のフィーリング。
でも、それでいいはずだと思うんです。それは時として相対的に間違っているかもしれないけど絶対的には正しい。
樺太編が一区切りして以降、何故私が主人公勢にモヤモヤするのかというと、やっぱりあの「ふたりの距離」でぶつけた杉元の問いが切り捨てられる側に回ってしまったという所にあるんだと思う。やっちまったらもう戻れない、というあの素朴な主張は杉元自身の生きた経験則から出た言葉であって、限りなく現実的な言葉だった、"杉元にとっての"現実の。
戦場では戦場の文脈があって、死に損なって戦場ではなくなった今はその文脈を使っても齟齬しか生まれず、あらゆることが語れなくなってしまい、新しい思考の文脈が杉元には必要だったということは理解できる。
でももう新しくは使えない文脈でも、そこに生きていた過去は消えないわけで、その時得た思考は環境が変わったからといって嘘になるわけじゃないと思う。
二人の関係が分かり合えないからといって即離れればいいというものではないというのも分かってる、でも、潔く捨てたその経験則からの答えの方が、杉元にとっては彼自身に近い、生きた、彼独自のものだったと思うんですよね。
己の過去よりもアシリパの先にある未来を信じ、その考え方に沿おうとする敬虔な態度…何というかそれは、彼の思考形態が彼自身の現実から遠ざかることなんじゃないか?
アシリパの現実も、それに対する見方も、アシリパのものであって杉元のそれと同一ではありえない。アシリパさんの綺麗な目から見た世界は正しい世界に違いない、「そっちのほうが」良いに違いない、と目を瞑って従ったところでそれは杉元自身の目で見た世界じゃないし杉元の心で感じた答えじゃない。
己よりも他人を信じ、間接的な世界を生きる…それでいいのかい? ダメじゃないか? そうやって自分以外の何者かになろうとしてもむなしいだけだよ? 今の杉元の本性が見えないょ…と思っていたところに、この何もかもダメなソロキャンが描かれて「あっ…(察し)」とニッコリしてしまいました。
紳士的で優しい口調と笑顔で通したEテレ教育番組のようなシマエナガとのやり取りの一方で、朝目覚めた時のクソみたいな表情のコマが一番好きです。
第一話の土饅頭にされたオッサンみたいにさあ、杉元も酒に溺れてその辺でベロベロに酔っ払ってるような、そんな生き方が出来ればいくらかマシだったのにね…状況が許せばそれが出来る男だと思う…そこには今よりずっと安らぎがあっただろうにな…
何にせよ哀れ過ぎてものすごく杉元の好感度が上がってしまいました。気をしっかり持って欲しい。
そう、杉元はあの状況で、あの流れで、最終的にウパシちゃんを食ってしまえる男なんですよね。それがハッキリと描かれたことに、今後を思ってうすら寒い思いがします。
どれほど精神が拒否しても、最後の最後、追い詰められた時に絶対に生き残ることを選択する圧倒的な本能。だからこそ不死身なんだ。この理屈抜きの、“そういう生き物”としての杉元の本質というのは変わらないんだと思います。だとして、それがどういう結果を齎すのか…。彼にとってはおそらく、苦しみとしての…嗚呼。生きろ杉元。(ビターな結論)