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長文置き場

金カム221話「ヒグマ男」感想

白石も知らない囚人だった平太師匠、我を失った彼の謎だらけの過去は一体どう明かされるのか?と思ったらそういえばニートになった元看守部長がいたんでした。キラウシをお供に飲んだくれ、かつての職場にいた囚人の話を酒の肴にして盛り上がるどうしようもないオッサン。不真面目な職務態度が目に見えるようだ。
対して話を聞きながら混ぜっ返すこともなく、平太の話と自分の知識を結び付けて真面目に平太の供述について考えてくれるキラウシ。癒し~~キラウシは癒し~~

砂金とりが得意だったものの金に目が眩んだ家族を疎ましく感じていた平太少年は聞きかじったアイヌの言い伝えから「その“ウェンカムイ”があいつらを罰してくれればいいのに」という過激な空想を抱いていた、そしてある日現実に殺してしまった、“平太”としてではなく“ウェンカムイ”として。
誰かが殺してくれないかと願う殺意、しかし自分でそれをするなんてとんでもないという罪悪感。その“欲望”がウェンカムイとして家族におぞましい仕打ちを仕掛け、“理性”が平太としてその仕打ちを恐れる。
平太の自我を分裂させたのは“ウェンカムイ”という、彼自身の抑圧した欲望を叶える力を持った偶像、それが存在するというアイヌの世界観…畏怖による信仰、罪悪感による現実逃避、錯乱による同一視。
ただ“本当はそんなことしたくなかったのに”、誤った偶像が欲望に現身を与えてしまったことで実行力を持ってしまった…とは言いにくい。恐怖のみでそんな風にはならないでしょう。自分と人食いヒグマを同一視するからには、その残虐さへの恐れと同時に憧れのような感情…ああなりたいという願望が深層心理に無ければ自分がそうだなんて思い込むには至らないと思う。信じる人間というのは信じたいから信じるんですよ。信じさせられるんじゃない、先に開けていた口があるからこそ嵌まり込む。

分裂した自分を恐れ、愛し、疎み、殺し、それをずっと繰り返しながら最後に残ったヒグマが生贄を欲して現実の被害を出し、人殺しという通過儀礼を経ることによってようやくウェンカムイは罰を受けてバラバラに四散し消える。そしてまた幻の“家族”は蘇り、その周囲をウェンカムイが徘徊し始める…。
一体現実に殺された人数はどのぐらいなのか想像はつきませんが…まあ時間のかかりそうなサイクルだし数では辺見の足元にも及ばないかな(マウント?)
ウェンカムイを“敵”として自分を裏切るものと位置付けていたが、それもやはり己の作り出した幻想に過ぎない以上は、自分が正しい側にいるために敵という存在を欲していただけ。平太は過去の罪から逃げる為にウェンカムイを存在させ続けなければならなかったし、居させ続けるために皮は絶対に肌身離さなかった。刺青を彫らせたのも、人を殺さなければウェンカムイという偶像を守れないから外に出たかっただけでしょう。そしてその全ての行いから「自分はそんなつもりはないのに」と目を逸らして逃げている。自分は本当はそんなことしたくないんだ、でも仕方ないんだ、何かが勝手にそうさせているんだと、しらを切っている。弱くて…卑怯で…醜い…クズ!(言い切り)

杉元という一方的に食われるだけではない獲物が現れて、拮抗する存在として戦ってくれたことで“己”を罰する勇気が出たといったところですか。杉元はヒグマに勝てる男だからな。(でも骨折はね~痛手だよね~たぶん)
私達の住む地方ではウェンカムイはあくまで「好きな人間を連れて行く」もので、罰を与えるために人を殺すものではない。中途半端にアイヌのことを聞きかじって間違った“ウェンカムイという偶像”を抱いてしまったのだろうと分析し、「正しく伝えることは大切だ」と結論づけるアシリパ
もし“正しいウェンカムイ像”が平太に伝わっていたら、その偶像が平太を狂わせることもなかったと考えているのだろうか。しかしその信仰の内容に地域差があるということはキラウシも、アシリパ自身も言及しているところだ。カムイが平太の言うような定義をされている地域が無いと言い切ることは出来るのだろうか。“正しい信仰”とはなんだろう?
考えていくと、それを信じることで導き出される行いが結果的に正しければ“正しい信仰”、みたいな結論を出さざるを得なくなる。マタギの信仰を理に適っていると評した二瓶のように。それとも私が結果主義に過ぎるだけなのか?
だがそもそも、“正しいから”人は何かを信じるのではない。“正しいと感じるから”こそ信じるのであって、それを正しいと感じさせるのはその人間の固有の心でしょう。そして絶対正しい精神など存在しない。(その定義は誰がするのか?)
聞きかじったウェンカムイの話に対する歪な妄信が規定したのは平太の殺人の“形式”だけで、もしその知識が平太にインプットされなかったとしても、また別の偶像を作り出して平太は遅かれ早かれ罪に手を染めていたんじゃないだろうか。きっと“罰を与えないウェンカムイ”だったら、平太はそもそも信じなかったと思う。信じるメリットが無いからね。(姉畑先生は“好きな相手を連れて行くウェンカムイ”にメリットしかないので信じたと思います)

このタイミングでの平太の話、主人公二人のエゴを暗喩(あるいは揶揄)する話だったのかなあと思ってるけども、どこまで関連付けて考えていいものなのかどうか判断に迷う。少なくとも本人たちは自身のことを引き合いに出すつもりの発言じゃないし…囚人というウェンカムイのことを言ってるだけで全く無関係なものとして語っているし…(杉元は自分を重ねて見ることの出来る存在だという事に若干自覚的なように感じられる素振りはあるけども)。そこを「え、でもそれってさあ…」と引っかかり、しかし自覚が無いこととして語っているものを指摘するのも憚られるこの感じ…わかります?私が穿った見方なだけなんです?でも穿った見方しないとこの…ああコメントに困るぅ~^^

ラストページで鶴見(ドンッ)、土方(ドンッ)、尾形(バーン)という感じで、前者二人と並列な感じでお目見えした元気そうな尾形にフゥー!!船旅は滞りなく順調だった様子。これからどうするの!?どこいくの!?まさか再び…土方陣営に!?