8番倉庫

長文置き場

ジョーカー観たよ

※超ネタバレ注意

仕事で「え、それ問題なくない?」という事を「僕も問題ないと思うけど」と前置きしつつ、たまたま目にしたらしい全然内情知らない別の部署の管理者に注意されたという報告をすることで婉曲的に注意されるというしゃらくせえ一幕があって社会なんてクソだよォ!という気持ちが高まりジョーカーを観てきました。

ちょっとでも変わったことするとアウトなんだな? 一つとして“異常”な行動はするなって事なんだな? 言われたこと以外何も考えないのが“正常”って事か、そりゃあ模範的に生きるなんてさぞかし簡単な事なんだろうなあ!とクサクサしてたら、作中の“日記”で「普通のこと以外はしないこと…」みたいな感じでアーサーちゃんが同じようなこと言ってて笑った。おうゴッサム燃やそうぜ!!!

いや予告編とか全然見てなかったんですけど、なんかちらほら目にする感想的に大量殺戮犯のテロリストにも悲しい背景が…みたいな、いわゆる『無敵の人』の抱える悲哀、みたいなのを見せつけられちゃうのかな~と予想してて見るのを迷ってたんですよ。だってそんなの胸糞だろうから。
こないだ無敵の人というワードがバズった時に「一人で死ね」という批判意見が出て、そしてその発言は危険だという批判も集まってきててちょっとした論争になってるのをトゥイッターで見かけましたが、この二項対立に例えば「幸福に生きよ」という概念も加えますと、私の中では

幸福に生きよ≧不幸に生きよ>>>(越えられない壁)>>>一人で死ね>>>(越えてはいけない壁)>>>>巻き込んで生きろ≧巻き込んで死ね

という感じなんですよね。巻き込んでゾーンが無敵の人ゾーンね。
そりゃあ幸福に生きられるのが一番なんですが、生きる上で必ずしも幸福である必要は無いと思うんですよ。人は幸せになるために生きてるんだよ、なんてことを言う奴は不幸な奴の不幸に責任をとってくれる事は一切ないので耳を貸してはいけない。
人になるべく迷惑をかけずに生きよう、そういう志が“理性”ってもので、古代ギリシャ人も動物と人間を分ける人間の本性は理性であると言ってる事ですし、そういう“人間性”を私は愛する。

何故おれは失うものがもう何もねえ! 幸福な奴をぶっ殺してやる! あるいは巻き込んで死んでやるう!という気持ちが沸くのかというと、「自分の幸福を諦められていないから」だと思うんですよね。これは前にも無敵の人の話をした記事でちょろっと書いたような気もしますけど。損なわれた幸福を「代償させよう」、つまりまだ取り戻そうという気持ちが残っており、諦めきれていない。
幸福のない人生を生きればいい、という言葉はあまりに冷徹なように見えますが、幸福を一個の非分離な塊みたく考えるからそう思えてしまうんであって、しなければならないのは“幸福のレベルを下げる”努力をすることだと思う。
別に毎日生ゴミを食えとか言ってるんではない。例えば女に相手にされねえ!という理由は結構そういう無敵の人界隈では古くは津山三十人殺しの頃からメジャーな理由のようですが、相手にされないものは仕方ないじゃないですか。
そういう現実的に実現の難しいことを絶対に叶えなければならない目標に設定してしまう強迫観念から、拭われない不幸というのが始まるのであって。もっと言えば、女に限らず他人の自分への感情の種類、みたいな自分ではコントロール不可能な領域のものを望んでしまう時点で精神的リスクヘッジが出来ていない。
どれほど地べたでイヤイヤをしても手に入らないものは入らないし出来ないことは出来ない、そういう挫折を学ぶイヤイヤ期が子供にはあると言います。多分地べたに寝転がらなくなっても変わらずに大人になる事とはそういう、諦めて起き上がり家に帰って飯を食う…というプロセスの繰り返しであり。
そういう「自分にこれを手に入れる事はできないんだ」という諦め・消化・成長を放棄して、イヤイヤ期の子供が結局敵わないが故に従わざるを得なかった親ではなく、自分より弱い者に一方的に凶刃を向けることで欲望を一方的に充足する、見ず知らずの女子供等を疑似的な“親代わり”にして幸福を諦めきれない自分の鬱屈をぶつける…という“生きる能力の低い人間の醜い姿”を私は見苦しいと思っているので、あえてそこを肯定しちゃうような内容なら見たくないな~という迷いだったんですが、ムシャクシャするし観るかァ!台風来るし!と勢いで観た結果、良い意味で予想を裏切られて良かったです。

まず全然テロリストじゃなかったね。それが正当な恨みかどうかは置いといて私怨オンリーの殺ししかしてない。そしてもっと一杯人がじゃんじゃん死ぬのかな~と思ってたけど理由ある殺しだけなのでそんなでもない。無差別殺人の脅威が国内外問わず深刻な昨今、そこに人間性を付与するタイプの話ではなかったことは好印象でした。

ただ作品時間の七割ぐらいはずっと「早く終わってくれぇ…」ってマジで劇場を出たくなるほど辛かったけどね。かわいそうなんだもん。
アーサーの不幸というのも先の話の例に漏れず、幸福の設定場所を間違っていることから生じる悲劇が多くを占めていると思う。
どうして人の視線に傷付いている自分を自覚できる知能があるのに、人前にあえて出て行こうとするんだ? 選ぶ職業選択が不幸の始まりだよ。人から暖かい笑いを引き出して自分という存在を他者から肯定されたい…なんて大それた願いだ。私は自分の意思に拠らず笑い出してしまう病気も無ければ彼のように追い詰められた生活をしている訳でもないけど、そんなの自分には無理だと断言できるよ。
それさえあればいいんだとか、一番欠けているものだからこそ追ってしまうんだとか、夢だとか希望だとか、気持ちは分かるけど、ほんとそういう所なんですよね“希望”の功罪は。どうして最上の喜びを求めてしまうんだ? 実際得た事もないのに。
もっと挨拶以外喋らなくていい仕事とか無かったのかい…それで日記だけは続けてさ…毎日ご飯を食べて…クソガキに目をつけられてしまうような目立つ格好はせずにさ…そうやって静かにただ生きている内に、ノートに書き溜めたギャグの精度も上がってくるかもしれない…客としての勉強は続ければいいじゃないか…一人の部屋で踊ったりシミュレーションして練習するのも続ければいい…ただ他者という自分でコントロールできないブラックボックスが沢山ある環境はなるべく最小限にするんだ。そういう防衛策が絶対に必要だったと思うんだな…精神科に通って薬も飲んでるような人なんだからさあ…生きる上で大事なのは攻撃力より防御力なんだよ。

まあ誰しもがこんな吉良吉影的思想で生きているわけはないので、しゃあないと言えばしゃあないということも十分理解出来るんですけどお。かわいそうなのに実際厄介な男でしかないから見てる方も鬱憤が溜まるんですよ。悪いのは弱者への支援を打ち切った市長か?社会か? でもあのカウンセラーちょっと無能そうだったよね…そして始まりからしてもうアカンかったという事が分かってしまったからこそ最後のタガが外れてしまったわけだしね…もう何が悪かったという事を語れる段階ではない。今の、そしてこれからの変化しか彼はもう望んでいない。

だからそういう、もう勘弁してくれえ…という悲嘆の連続からのジワジワ解放されていくポジティブな狂気には、わりとカタルシスはあったね。
一番私的許せるポイントだったのは、自分がどういう存在としてテレビショーに呼ばれたのかを理解した上で、あのノック、ノック…のネタのオチは多分彼にとってギリギリまで「どっちでもよかった」んだろうなという事。生中継で自分の顎打ち抜きも相当な放送事故だし、確かに彼のネタの最高傑作になっただろう。それでも過去に自分が綴ったノートの、自分だけが分かる思いが篭った文字を目にして、結局ああした。その「どっちでもいいんだ俺は」感の嘘偽りなさが、いっそ応援してしまいたくなる吹っ切れ感があった。「あっそっちね~!オッケー!!!」と親指立てて許してしまいたくなる。
燃やされるゴッサムもヒャッハー燃えろ燃えろォ!!と心浮きたつ光景ではあった。
まあその後すぐに「これが何になるんだよ? 後のことを考えない破壊しか為さず、生産は何一つできない感情だけの群衆…虚しい…」とたちまち抑鬱モードになってしまったけど。

殺人シーンはどれも緊張感があって良かった。特に最初の殺人はすごく心臓の鼓動が早くなってしまった。銃社会こえ~。
何よりどこでも言われてますけど主演の方の演技が素晴らしいですね。台詞や動きもそうですが、私は彼の“沈黙”が物凄く印象に残りました。自分が晒し者にされているテレビを見上げる表情、じっと何かを見つめる時の眼差し、まるで目に見える一本の糸のように張り詰める沈黙。
あの孤独で悲しい沈黙が無ければ、この作品はそこまでの…そこまでのアレではなかったと思う(婉曲表現)

ただ私ダークナイトちゃんと見てなくてですね、家族が見てたのをほーんって横目で覗いていつかちゃんと見ようと思ってとっといてそのままなんですけど(でも僕インターステラー大好きです!!!!)
そういうバットマン超ニワカだからこそ一本の映画として楽しめてますが、確かチラ見したノーランバットマンのジョーカーってどっちかといえばノーカントリーの空気砲男みたいなヤベェ奴だった気がするので、これまでのジョーカーというキャラクターのファンには噴飯ものの映画なんだろうなというのは物凄く理解できる。
だってこのジョーカーかわいそうで、まず前提として優しくしたくなっちゃうもん。頑張ってるのにね?悪くないのにねえ、って庇いたくなっちゃう。絶対敵に回したくない強い悪役、では間違いなく無いよね。
ゴッサムを燃え上がらせたその悪事の動機も“義憤”って感じに近いしね。何と言うか下から目線なんですよ。ルサンチマンな怒りというか。
私の中で本当の異常な悪党というのは、俺が正しくてお前らはカスと臆面もなく言い切って実際カスのような扱いをするし出来るという傲慢さとセットなんですが。
行為が結果的に傲慢でも精神が傲慢になり切れないならそこにはかえって欺瞞が生じるように思う。

それに作品のカラー的になんというかミリオンダラーベイビーとかそれ系ですよね。重いよ~覚悟いるよ~知る人ぞ知るよ~という扱いをされるべきな話のように思うんですが、ジョーカーという大看板を背負わせてそういう話をやったことで、本当にそういうのを観たがる変人だけが観ていたジャンルの映画を普段そういうのに近付かない層が観ちゃって少なからぬ影響を受けている、という状況はどうなんだろうと思う。そんなに見せたがっていい映画かコレ?
まあ作中で「どうして監禁されたのか分かる?」という唐突な過去のショット、そしてどこから妄想だったのかを分からなくさせるようなダメ押しのラストで「これはただ偶然見た目が似てジョーカーという名前も被った一人のかわいそうな男の話に過ぎない」と解釈できる余地をメチャクチャ盛り込んではいるけども。だからこそより一層他人のふんどし感を感じなくもない。

まあ私はダークナイトまだ観てないんでどうでもいいんですけど~!
それにしても『おしん』とかと比較して、おしんの方が苦労してるのにジョーカーときたら…みたいなdisられ方してるの見かけて笑ったんですが、考えてみればこうやって弱者としての迫害に遭い、それでも加害や力での解決に頼らず社会の中で強く生きて行く…というストーリーを持つ話としてジョーカーと対比される物語、見た感じ“女主人公”の話ばかりだなあと考えさせられました。
限界中年男性の悲哀として現代の世に話題沸騰となっているこのジョーカーという作品が突きつけた一つの現実の問題点がここにあるようにも思う。
苦しくったって~悲しくったって~という状況でも諦めずに頑張ります!という「けなげな」話、多分女の子だと“画になる”んだろうね。
コーチとかに認められたり、優しくしてくれる男性の言葉に勇気づけられたり。そして見守られながら才能を開花させたり。
そういう文脈が、少女や女、そして少年ならば物語になる。主役になる。しかしいい歳した男が、善良さだけが取り柄の平凡な男が、かわいそうな状況から一生懸命努力して少しずつ成功体験を積んで、尊敬できる師、周りには信頼できる仲間、ライバル、みんないい人、みんなありがとう!みたいな話あまり思い浮かばない。リーマンもののBLとかならありそう。
多分男という精神性がそうした世界に生きられないという事では無いと思う。普通にそういう感受性は他の属性の人間と同じ比率で持っている男が存在する。ただ、架空といえども物語としてそこを用意されないことで、「かわいそうな男」の「キレない」ロールモデルが少ない、ということが問題だと思う。
不幸、絶望、そうした状況や人間関係を変えるために自分か対象のどちらかを破壊するという手段しか取れないのは、精神が身体性にガッチリと一致してしまっているからだ。物理的な変化でしか何かを変えられない。認識を変える、ということには必ずしも物理的な変化を伴わなくてもいい筈と思うが、その手続きを狂気に至らず健全に行うには、今の“男”という社会的概念では難しいのかもしれないというようなことを考える。
こう、「ウオオオ!」っていう再起しか認められないみたいな。マチズモというやつなんだろうか。
まあ何を言っても私は女なんで他人事の発言にしかならないんですが…でも可哀想がられて庇う人が出たり、クソザコヴィランとdisられたり、俺も同じだと同一化する人が出たり、なんかその構図とキャラクター性というのは従来の男性性というよりは女性性を感じる。守りたいこの笑顔。

いやーつらつら書いてたら長くなりました。ブログコンスタントに更新したいとか言っても、普段読んだり見たりしてるのが全部つまみ食いみたいな読み方で、最後まで読んでない限りは感想を言う段階でもないから結局止まりがちになるという。
その点映画はいいですね。見たら最後確実に二時間ちょいで完結するし。
ところで台風来ますが一体世界はどうなるんでしょうか? 私の部屋のガラスは果たして耐え凌ぐことが出来るのか…。皆さんもお気を付けください。