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長文置き場

金カム206話「ふたりの距離」感想

すごいどうでもいい話していいですか? 書きたいけどなんかやる気が出ねえな~次週休載だしまだ書かなくてもいっか~と色々見てたら、尾形がこれまで小樽・茨戸・夕張等でことごとく接近戦においてボコられてきた図を見ている内に急にテンションが上がってきて今これを書いています。私尾形のこと好きすぎでは? 早く尾形出てこないかな~(ナメた読者)

スピーク・ライク・ア・チャイルド

本人たちは真剣でも、どこかままごとのような学芸会。それ自体が既に思い出であるかのように笑いながら、出来たばかりのフィルムを各自の身内ごとに固まりながら鑑賞する一同。
出来の悪い自主製作映画、知り合いだけは面白いホームビデオのような映像。その後に、不意に映し出される見覚えのある風景。登場する一人の男。
「アチャ!?」
「え? これがウイルク?」
白石ってウイルクの手配書はよく見てなかったのかな?(水を差すような疑問)まあ人相書き、しかも若い時代のとは全然別物か…
すっかり北海道アイヌに馴染んでいる様子のウイルクさん。マキリとか器用に作って(なんでも器用にこなしちゃうんだろうな~)北海道でもモテていたそうですね。ああ後ろにはフチも…。
そして隣に映る、見知らぬ女性。初めて明かされる、アシリパの母…!
す、素敵な感じのひとだ…アシリパの凛々しさとひょうきんさに女性らしさと落ち着きを足したような…ウ、ウイルクこの野郎…(謎の憤り)
回想の比較的多い漫画ですが、毎回過去編への入り方や情報の出し方に工夫があってすばらしいですね。今回のアシリパの母の顔という重大な新情報も、単なる過去の開示という形で読者だけに見せるのではなく、シネマトグラフというギミックで登場人物も同時に知る構成なのがまさに転換点という感じ。
一生知る機会は無いと思っていた母の顔に、どこか実感がなく呆然としていたものが、おそらく“自分”である赤子の存在が映ることで本当だと…ああ自身に記憶は無いけれど、これは本当に私の母親なんだと腑に落ちたように、画面に声もなく見入るアシリパの図が切ない。

「あなたの父上は樺太から来たアイヌで、結婚するために日本の戸籍を取ると言っていたよ。戦争がまた起きたら招集されるからやめておけと冗談を言ったんだけど、このあと日露戦争へは参加されたのかね?」
結婚前の映像…ということは、インカラマッの回想が本当なら丁度この頃彼女はウイルクのもとを去ったということになりますね。「奥さんと幸せにね」と言っていましたから。しかし小樽のコタンに訪れたことはない? フチとはアシリパが危険だと予言した時が初対面っぽかったですよね。小樽には居たが滞在していたのはフチやアシリパ母のいるコタンではなかった? というか結婚前に既に子供を? ウ、ウイルクこの野郎…(二度目)
それにしてもお似合いの夫婦という感じだ。ウイルクの只者じゃないオトコ感に女として負けてないっすわ。この幸せそうな二人を前にインカラマッは淡い恋心を胸に秘め、二度と会うことはないでしょうと言って身を引いたわけですね…
しかし映像の内容を見るとウイルク自身がアシリパに語っていたように、北海道アイヌ文化はやはりアシリパの母から教わっているような印象を受ける。インカラマッの話はどこまでが本当なのだろうか? でも実際着物を見てウイルクはインカラマッだと分かった様子だったしな…確実に顔見知りではあるんだよな…インカラマッはまだ何か重大なことを隠している気がしてならないのですが。何故ウイルクはインカラマッのことをアシリパに一言も語らなかったのだろう?

そして今はもういない“過去”の人しか映らぬ映像の中で、一人だけ、皆が知っている男の姿が。
こちらを振り向く穏やかな顔。一瞬だけ目と目が合う。その瞬間、燃え上がるフィルム。
私が先遣隊なら「祟りじゃ!キロランケの祟りじゃあ!」って震えながらお経を唱えるシチュエーションですが…まあ日露戦争帰りにそんな事を言ってもしゃあないか…
結局日露戦争にはキロランケだけが招集され、ウイルクは開戦前に“のっぺら坊”となったわけですが。キロランケはのっぺら坊=ウイルクだと知っていた。アシリパと最後に会ったのはウイルクの葬式、つまりキロランケはウイルクの葬式に友人として参列しながらもそれが偽装だと知っていた。“ウイルクは死んだということにする”側の人間だった。
しかし網走監獄にブチ込まれたのはキロランケにとっては予想外だったのでは? 顔の皮膚を焼いて判別不可能になったことも。性格的に友人がそんな目に遭うことを手段として承知出来そうにないというのもそうだし、アシリパにわざわざ確認させたということは確信が持てない部分があったからこそだろうし。
ただパルチザンとしての元々の“北海道アイヌに潜り込んで彼らの蓄えた金塊を奪う方法”が、「村長の娘と結婚し有力者の地位を手に入れ、扇動し、和人に対抗するため金塊に手を付けようとしたまさにその瞬間に独り占めすること」だったというのはあり得るようにも思う。ウイルクは目的のためには躊躇いなく仲間も始末出来るような冷徹な男だということは樺太の旅で明らかになった。
しかし「あいつが…変わってしまったんだ。金塊の情報を古い仲間たちに伝えに行くはずだったのに…」とキロランケは言った。
村長たちを殺す手はずだったのにウイルクは土壇場で殺すことを拒否した、とか? 死体がバラバラだったのは爆弾=キロランケによるもの、とか。うーんでも、それだとのっぺら坊化の謎が置いとかれたままだな。
そこで浮上してくるのが鶴見の存在ですが。幼い赤子に口づけるウイルクの姿は長谷川幸一を否が応でも彷彿とさせる。
戸籍を取ったことで鶴見が照会出来る足掛かりになった可能性は非常にありそう。そして金塊強奪事件の現場検証をしたのは鶴見中尉である。もうこれだけで鶴見が一枚でも二枚でも噛んでないわけなくない?という気になってきますが…
不思議なのは鯉登家=海路の入手(多分)に目をつけてるのが比較的早い段階っぽいところ。金塊関連で必要なのではという想像をしていたが、それにしたって目星をつける根拠がその時点であったのか?
でもそうか、ウイルクが入手した“ロシア政府から漏れてきた「ある情報」”を、スパイだった長谷川幸一が同様に入手している可能性も十分にあるな。経路が違うだけでウイルクと鶴見はほぼ同時に金塊争奪戦をスタートさせていた?
のっぺら坊にしたのが鶴見だったら超コワいですね。「お久しぶりですグリゴリーさん」なんつって。
何にせよ共謀してキロランケに写真を撮らせ、最終的にその写真を鶴見に流すことになった杉元も、そして土方も、まさか鶴見とキロランケたちにあんな因縁があったことなど知る由もなかったでしょう。
『写真』はこの作品の大きなキーアイテムですねえ。新聞にアシリパの写真を載せようとしている土方。残っていた過去の土方の写真。一人一人撮った写真。勇作の遺影。花沢中将の肖像。現在撮った活動写真。過去撮られた活動写真。
そう考えるとスパイとしてであっても写真館を開いていた鶴見が“撮る側”なのは、何だか暗示的な気がしてきますが。あと尾形だけ写真館に居たのに写真を撮っていないところも。啄木と飲んでた白石も、撮らなかった側に含めて良いのか迷いますが…

父、母、そしてキロランケ。同じ文化を生きた、文化を己に共有してくれた人たちの存在を、活動写真によって“他者の姿”として目にしたことで、内に溜めていた葛藤をはっきりしたひとつの問いにして吐露するアシリパ
立派な子ですわ。父を殺したというキロランケに拭い切れない遺恨を抱えつつも、その思想と、見せてくれた世界に関しては無視してはならないものだとして拾い上げる。悩みながらも真剣にその遺志に向き合って、足掻いた結果の映画撮影だったんですね。
映画撮り始めた時、それはキロランケの言ってた文化を残すってことになんのかい?という感想を抱いたんですが、私などが疑問に思うまでもなく自覚されていた問題意識におみそれしましたという気持ち。

 「守るためには戦わなければならないのか…」
生活が無ければ文化もない。その土地に住まう民族が生きる上で、最適化され洗練されていったシステムが“文化”を形成する。
形骸化されてしまえば、残ったとしてもそれはただのコレクションになる。ダンさんが金で買い取った花嫁衣裳のように。
我々からすれば大切に育てた小熊を“良いこと”として皆で殺す儀式は奇異なものに映る。野蛮な印象すら抱く。しかし彼らはそれを信仰として行っており、決して悪趣味な遊びでもなければ、命を軽く扱う意図もなかった。
その文化も今はもう記録としてしか残っていない。最後に行われたのは一体いつなのだろう。
内地と北海道で和人とアイヌの交易が始まってから長い間、和人はアイヌを学が無い相手だと差別して、かなり不当な取引ばかりしていたという。魚を数える時にゼロも数に含むのだと言って多めに巻き上げたりしていたと、昔学校の授業で聞いたことがある。
鎖国をやめろと外国から黒船が来航してきたのと同じように、国内でも和人はアイヌの文化に迎合を迫った。少ない者は数の多い者に圧し潰される。培養されていたシャーレには違うものが混入して、もう元には戻らない。
現在世界で現代文明と接触を断ち、民族の自治を守ることに成功している民族は北センチネル島のセンチネル族くらいだろう。余所者が島に近付けば矢を射られて殺されるらしい。完全に島内で完結した生活により、外の病原菌に対する免疫を持たないため、保護の観点から政府も外部の者の上陸を法律で禁じている。
それぐらいしなければ、民族がグローバル化の波に流されないことは不可能ということなのだと思う。別の民族だが、十年前には住民の殆ど全員が驚くほど良い視力を持っていたのに、現在はインターネットやスマホが普及してしまった影響で、あっという間に視力が落ちて眼鏡すらかけるようになっているという話も読んだ事がある。
先の北センチネル島も、ネットで情報を知った旅行者が“観光”に訪れようと金でボートを雇い、上陸はしないまでもギリギリまで接近するケースが増えてきているらしい(その“客”の中には日本人もいるとか)。マジョリティほど公平なモラルからは遠ざかる。多数派の傲慢さは止められない。離れた孤島だからこそ、ここまで文化の流入が防げた点は大きいだろう。島内では常に接近する船やヘリが無いか、交代で見張りを立てているのかもしれない。地形が政治に与える影響は計り知れないほど決定的だ。
土方は、北海道を日本とロシアの緩衝国として独立させる意図で動いている。それに対し杉元は「独立なんかすれば下手すれば内地と戦争だ」と言っていたが、そんなことは土方も承知の上で、それでもアイヌは蜂起するだろうという目算があるのだと思う。これまでで、和人からのアイヌへの脅威はそこまで描かれていない印象だが…実際に消えかかっている文化がその根拠になっていくのだろうか?

大人はわかってくれない

あの相棒再契約の際の「別に…」でヒエ~ッってなって以来、再び訪れた杉元とアシリパのタイマン勝負! 今度は隠し事もなく、しかもめちゃくちゃ冷静に思っていることを全部言ったので杉元を見直しました。何ってその話術に。やっぱ自分の決めた事に関してはブレがないだけに、腹が据わってるんでしょうね。
でもめっちゃ目に影入っててこわいよおッ!ってビビる形相だったのが、「私のためじゃなくて自分を救いたいんじゃないのか? 私の中に干し柿を食べていた頃のような自分を見ているだけじゃないのか?」という問いでスッと冷静になり「それもある」となったのは、アシリパの問い方っていうのが“惜しかった”からなのかなとも思いました。そのものズバリの核心じゃないから冷静さを取り戻した感じ。
確かになんか、杉元が後半に言った親の在り方を問う憤りと、アシリパの指摘した“かつての自分の姿”を見出して救われる心理というのは、どちらもエゴであるという点で確かに近いし掠ってるんだけど、微妙に違うものの気がする。
どっちにしても救われるのは自分っちゃ自分なんだけど、干し柿を食べている頃の“自分”っていうのは「もう戻れない」と“諦めきっている自分”であり、杉元の“救い”とアシリパの指摘した“救い”は少しだけ異質というか…杉元の熱意は完全に“親”って感じなんですよね。自分はいいからこの子だけは…!!みたいな。アシリパの入った脱出ポッドだけ射出して自分は船内に残るみたいな。
アシリパの言うこと、つまり「自分の果たせなかった望みを託して自己実現を図ろうとしている、それは自己満足に過ぎない(byユリ熊嵐)」という指摘も「確かにそれもある」なんだけど、杉元の中でそこのフェーズは既に過ぎているというか…そういう“夢”を見させてくれたアシリパ自身に、もう杉元は救いの主体を移している印象。そして純粋に、自分が“救われなくなった”原因の病を彼女に持ち込ませまいと隔離しようとしている。彼女が彼にとっての彼女で在りさえすれば、そこに彼自身を見出せなくても、自分という存在が関連づいていなくても最早大した問題ではないというような…
エゴはエゴでも断絶したエゴイズムというか。その相容れなさを本当に理解した時に、アシリパは“偶像”の本当の意味を知るのだろうか。

しかしまさに「ふたりの距離」だと思いますが、杉元の考え方の枠組みというのはどこまでいっても“個人”なんですよね。親に対しての“自分”。人を殺さざるを得ない“自分”。たまたまそういう環境に置かれた“自分”。
個人、自分、という“考え方”が一般的になったのはそれほど昔のことではありません。昔の人間は“ムラ”や“イエ”等の一部として構成される一個の装置であり、自由意志などというものは何処にも属さない人間の狂気に過ぎなかった。ゴールデンカムイの時代は丁度そこの過渡期という感じの印象ですが。
西洋的な概念…といっても世界で個人という概念が初めて登場したのもフランス革命だという話を読んだことがありますし、人類がどこにも属さない“己”に目覚めたこと自体がとても最近のことなのでしょう。
そしてアシリパは父から、祖母から、村の大人たちからアイヌの伝統を口伝され、民族の輪の中で育ってきた“アイヌの女”です。
「新しいアイヌの女」と自称し、女がすべき縫物や編み物をせず、勇ましく山で鹿や熊を獲るアシリパの姿に、杉元は「自由」を見たのでしょう。
しかしそれは若くして結核により家族を全て失くし、村八分され、家を捨て、一人で生きてきた杉元の“自由”とは全く別のものです。孤独に彷徨し、「どこにもいられなかった」杉元の“個”と、多くの可能性を与えられ、過去から積み上げた未来という先を託された「どこかを決めなければならない」アシリパの“個”は決定的に違うものなのです。(ひどいことを言っている自覚はあります)
現代人からすれば杉元の言っていることの方が確かに理屈として共感出来るでしょう。子どもは親の所有物ではない。親がやれと言ったことに子供が必ずしも従う必要はない。
しかしそれは“子供”に“従う”という“主体”があること前提の理屈です。
例えば親と話す時の自分と、学校で友達と話す時の自分は違う。それは学校という、“親という存在抜きで成立する世界”専用の自我が育まれるから。そしてその自我が、親という存在を別の角度から見る視点を可能にする。
しかし学校などなく、親と暮らす家で、そして誰もが親を知っている村の中で、世界が完結していた時代は?
どうして“従う”なんて言葉が出てくるでしょう。共同体とはそういうものです。ただ一緒にいるだけの他人、ではなくて一個の意思を共有する大きな自我なのです。人間の自意識が肉体で区切られているなどというのは幻想です。
“別の意思を持つ他者”としてウイルクやキロランケをアシリパに対置する時点で、杉元にはそれが分からない。杉元は帰る場所がない。自分が大きなものの一部として思考する感覚が分からない。
どちらが良いか悪いかという話ではありませんが…。
共有、ということが“不死身の杉元”にはない。でも確かにそうした杉元の存在は、強烈にアシリパに“新しい世界”を与えるものでもあって…。
樺太を旅し、新しい世界を見て、旧い世界を守らなくてはという意識の芽生えたアシリパ。過去は常に断絶し、未来も常に決まっている、どこへも行けない杉元。
今回の杉元は、「ああ、“大人”だなあ…」と感じられてならない。あらゆる意味で。

ところで尾形が「この金塊争奪戦から“上がり”だ」と形容したのに対し、杉元は「この金塊争奪戦から“下りて”ほしい」と形容するこの真逆の言い回しがチョー素晴らしい。
なんかこういう細かい部分に、ああ確かにそれぞれこう形容するだろうな、って腑に落ちる言葉を選べるところに感動してしまう。キャラクターがものすごく作者の中ではっきりしてるから出来るんだろうな。
杉元と尾形、どっちもアシリパに対し「金塊見つけたらあとはすっこんでろ」という主張は共通していますが(言い方)、尾形の“上がり”は金塊争奪戦というものに誰でも“上がれれば勝ち”のババ抜きとか大富豪みたいな、その場にいること自体が“忌まわしいもの”というニュアンスがあるのに対して、杉元の“下りる”は主体的に参加する競馬とかルーレットみたいな、意思のある者が目的のために自分から場に立つもの的なニュアンスがあるように思える。
杉元は常に己の意思だけを生きているからな。もうね、これは純粋に褒めているんですけど、杉元のこの揺るぎない“押しつけがましさ”が本当に「強い」と思うんですよ。
尾形と比べるとよくわかる。尾形のアシリパに対する説得読んでて、私は「こいつ本当にいいヤツなんだなあ」と思ったんですよね。勿論語弊があるんで今から言い訳させてほしいんですけど。
あの時、説得に用いる材料がたとえ下手な嘘や隠し事だったとしても、だからこそその裏には“アシリパ自身がそう思わなきゃ意味ない”という動かざる前提があったじゃないですか。
他者に行動を促す上で、その者自身の意思に重きを置いてしまうその無自覚であろう思考のフレームは、母親を殺した動機すら“母が”父に会えるだろうから、と言い放った尾形の、おそらく生来的なものなんだろうと思う。
自分の意思を、他者の意思を押し退ける上位に置くということが出来ない、というより発想にない。どうしても並列する意思の一つと位置付けてしまう。本当の意味で、どうしても“偉そう”になれない男なんだなあと。
尾形が他人に対して偉そうになる時は、そうできる根拠がある時…普通は銃では獲れないヤマシギを卓越した射撃能力で仕留めてみせた時や、自分の方が三八式を持つ有用性があると主張した時の見下しとか…“相手にとって”そう認めざるを得ない道理がある時だけなんですよね(だからこそ利き目喪失&三八式水没が大ダメージだったわけですが)(「ボンボンが」は「お前は本当の地獄を知らねえんだ」的ないわゆる低見の見物ってやつだと思う)。
しかし本当に偉そうな人間というのは、他者の意思など斟酌しない。むしろ根拠も正当性もなく上から物申せることこそが上に立つ者、命令する側の者(いわゆるS)としての絶対条件なんです。「出来ねえじゃねえ、やるんだよ」の精神。
天は人の上に人を作らず、突き詰めて考えれば誰も人を支配したり使役したりする権利はない。だからこそ逆説的に、人を駒として扱う者は人を駒として見る必要がある。
「あんたについていく人間が可哀想じゃないか?」って訊いた時、土方は尾形のこと「面白い奴だな」って思っただろうけど、同時に「あまり警戒する必要がない奴」って判断を下したと思うよ。ナメられたと思う。本当に怖い奴っていうのは杉元みたいな、誰も信用せず自分の意思だけを優先する男だもの。こっちの意思なんて問い掛けすらしない奴。
“自分”は己という不可逆の意思を実行する単一存在であり、周囲はすべて“不確定な対象”に過ぎない。その間は完全に断絶している。だから“己以外の意思”とは、本質的に“関係ない”もの…そういう割り切り、開き直りが杉元の強み。
だから尾形に感じた「いい奴」っていうのは、行動での評価ではなく(実績は作中トップクラスの極悪だからネ)、“思考する能力”が「いい奴の能力」だなって。尾形に対してこれまで不思議と理性の塊のような印象を抱いてましたが、それは彼の思考における主観と客観の公平さにあるんだろうと思います。
そして最近私は杉元のことを「超つよい悪役」として読んでるんですよ。彼は反対に行動、実績は正しいのに、思考回路は悪のそれなんですよね。主観と客観の徹底的な断絶、その上でのクレバーさ。
尾形は環境によってはすごい善良に生きそうだけど、杉元はどんな環境でも気に入らない上官や上司を殴ってしまうと思う。
まあ完全に個人的な基準ですけど。善玉だと思って杉元を見るとバグるけどヒールだと思って見ると超カッケーのでそう思って読むようにしているんです。そして、群像劇ってそういうものなのかもしれないと思って。
何にせよ大切にしているご両親の姿を見た後だと二人とも娘に近付いてほしくない男すぎるな。ハードすぎるもん。
がんばれアシリパ…口のうまい男に負けてはいけない…!(口下手な男もがんばってほしい)