8番倉庫

長文置き場

不条理と報復感情の消化

※日記です。いい話はしません。京アニの事件の話で始まり終わる話なので精神衛生のため情報を遮断している方はご注意ください。

今週の金カム大事な回だったので思ったことは色々あって、雑感をメモってあるから後で感想書きたいんですが、その前に木曜起こってしまった京アニテロ事件があまりにも痛ましくショックなので整理するために自分の感情を文章化して少し区切りをつけたい。
悲しみというより殺伐とした感情が大きいので褒められた話は全く出来ません。
~べきだ、というような話もしない。ただ“諦め”という形の感情の妥協点を倫理度外視で探した結果の記録。

まず仕事を終えた私は惨事のニュースにビビった。

それからしばらく新たな情報を求めて情報収集にかぶりつきになり、しかし濁流のような顔の見えない発言の流れの中、同じ話題や古い話題の繰り返しが慢性化してきたリアルタイム情報にとりあえず見切りをつける。被害者の無事を願う声や発足する募金活動、京アニ作品の布教や祈りの声などを横目に、私はガソリン爆発事故の映像や大火災事故のニュース映像を片っ端から見始めた。

常識の範疇を超える大勢の人が一気に亡くなったニュースに呆然とする状況、過去の経験として鮮烈に印象に残っているのは、やはり先の東日本大震災だ。
私はあの時も同じように、ネットでニュース映像や現地の人の撮った映像をひたすら見ていた。あの時も今回も「悲惨な情報をずっと見ていると精神に悪影響の場合があるから自衛しなさい」というアナウンスがあったが、私はむしろ他人事として隔絶しようとシャットアウトする方が労力を使うタイプかもしれない。ひたすら自分が同じ状況だという想像力をなるべく働かせている内に落ち着いてくるというか、諦めがついてくる。何の道理もなく非業に死んでいく人々、痛みも苦しみもない平穏の中でそれを傍観する自分、その説明のつけられない運命の差別がただの偶然に過ぎず、「自分はいつでもこうなり得るのだ」と納得することが逆に“こうなっていない今”とのギャップによる不安、不穏を和らげる気がする。
(ただ基本私はテレビを全く見ないというか、テレビで情報収集をしないようにしているしSNSは話半分で見るようにしている。どちらも整理され切っていない他人の感情と解釈が情報とセットで入ってくるので、確かにそれにどっぷり浸かるのはやめた方がいいなと思う)

私は青天の霹靂の防ぎようのない被害によって、磨いた技術を用い世界に多大な恵みを齎してくれた大勢の素晴らしい人々が凄惨な死に方をした事実を、その“回避不可能”という点から天災や大事故の類のように“処理”して不条理への折り合いを付けようとしたのだった。
しかし情報収集中に、道路に横たわる犯人の腹から下の鮮明な画像を見て、「ああこれが犯人か」と、この大災害は明確に“人為的な”ものであるという認識が出来てしまったことで無理無理の無理になる。

無気力による廃人からの覚醒→「死ぬのはイヤ…死ぬのはイヤ…」→「殺してやる…殺してやる…」と量産機に手を伸ばした惣流アスカラングレーみたいなことになった。
非業の死という結果と、そうなるに至った要因を切り離して、結果だけを悲しむということが“人為によるものである”という事実を前に難しくなったのである。
それからは、罪とか罰とか報復感情とかそういう事について考えていた。
犯人は犯行後に近隣の民家のチャイムを鳴らしまくり助けを求め、現在意識不明で治療中らしい。過去に精神疾患の病歴があり、犯行の動機はアイディアを盗作されたからだと供述したという。
動機が本当なら十中八九「あの時外に出した俺のアイディアを盗んだに違いない」とか「俺の思考が覗かれている」等のよくある盗聴妄想であると思われる。どうでもいい。認識した全てを自分に運命付けてしまうお花畑の住人は病名付いてる付いてないに関わらず世の中には多い。
胸糞なのは、脅しに留まらない明確な殺意があった事は上のツイートで書いたように間違いないだろうが、死ぬ気は無さそうな所から見ておそらく自分も問答無用で巻き込まれるほどの威力がガソリンにあるという認識は無かった、つまり犯人の馬鹿さがここまでの凄惨さを引き起こしたのではないかと思われる点である。
知り合いでもない、話したこともない、ただ黙々と仕事しているだけの一般女性に問答無用でガソリンをかけて火をつけるなどという鬼畜の所業を、一体この世のどれだけの人間がやろうなどと思うだろうか?
ガソリンは気化するので燃えるというより爆発するらしい。映像をいくつか見たが酷いものだった。しかし犯人は“灯油よりよく燃える油”程度に思っていたんじゃないだろうか。それにしたところで見ず知らずの人を逆恨みで焼き殺そうとしているのは間違いない。救いようがない。

しかし重体で意識不明であるとする犯人の処遇について、絶対死なすな、証言させないと被害者も遺族も浮かばれない、きちんと罰を受けろ、死刑にしろ、死刑では足りないだろう拷問しろ、同じ目に遭え、というような色々な意見を見ていると、犯人に抱く憎悪の行き場として、自分の腑に落ちる結論というのは何になるだろう?という答えがすぐには出なかった。
「100万回焼死して欲しい」などと書いたのは、もし“同じ目”に遭ったところで犯人の一回の焼死体験に対し、犯人によって亡くなられた方の数は33名(これは追記だが今朝34名に増えた)、建物内に居た方々の総数は約70名、二次被害三次被害も考えたら計り知れず、単純に一回だととても釣り合わないと思ったからだ。そしてそんなことは現実には不可能だと私はもちろん理解している。一度死んだら帰ってこないからこそ人命は尊く、だからこそそれを奪う行為は許され難いのだから。そして全然足りないその“一回”に、どれほどの意味があるのだろう?という気持ちになってくるのだ。(これはモラルの話ではない)
死刑以外はあり得ないとも確かに思う。『ウトヤ島、7月22日』として映画にもなった(映画は観れてないが)ノルウェー連続テロ事件の犯人は、単独で無差別に77名もの人々を爆破と銃乱射で殺害したが、ノルウェーには死刑制度がないため禁錮最低10年、最長21年という判決が下された(これが最高刑らしい)。しかも割と刑務所内は快適らしく、所内のゲーム機をPS2からPS3に変えろという要求を犯人が出したり、あまつさえ服役しながら大学への入学すら許可されたらしい。専攻は政治学、悪い冗談みたいな話だ。自分が遺族なら憤死してしまう。あらゆる“人間”の“権利”を守る云々を理由にして死刑制度反対派になることはとても私には出来ない。

しかし死刑では足りないとなると拷問がお望みか?と考えるとそれも別にいいかな…と引いてしまう自分がいる。
よく「許せない」「絶対に許してはいけない」という言葉のあとに「犯人に正当な罰を」「死刑を」という言葉が続くのをよく見るが(そしてそれは法治国家として全く間違っていない報復感情の発露の仕方であり危険思想なのは私の方だと理解はしているのだが)、“自分”が“主体として行う”のは「許さない」という憤りの表明だけで、実際“行為する”のは求刑する検事とか判決を決める裁判官とかボタンを押す執行官なんだよな、と考えると、これは非常に嫌な言い方だが、「許さない」という“意思”を持つことは「手軽だな」という感じがしてしまう。やっちゃってくださいよォ!と煽ることが、“許さない”という意思の要件を直ちに満たす。そしてそれが法治というものの本質なのだ。検事も裁判官も執行官も自分の許さないという意思で罰を与えるのではない。国民に委託されて、分業して、役割を担ってくれているだけだ。そういう職業なのだ。
そして私刑に走らないことが、自由意志を許された国民の役割である。責任を少しずつ分担することで公平を期そうとする。

その上で考えてみる。目の前にとても許し難い罪人が、身動き出来ない状態で“用意”されていて、「お前が自分で、自由に罰を与えていい」という状況があったとした時に、私は意思により何らかの報復を行えるだろうか?
無理だ、と思った時に私はこの事件への気持ちの整理がついたような気がする。ここが私の限界だと思った。
それは情けとかではなくて、単純に忌避感だ。私は虫も中々殺せないが、虫を殺せないのと同じように人を傷付けられない。黒ひげ危機一髪みたいに刺していいよ、とナイフを渡されたとしても、刺した後苦しんでのたうち回る様子とか想像してウウッやっぱりいいですってなると思う。他のどんな苦痛を与える行為も同様である。かわいそう…なのかもしれない。でもどちらかというと恐怖に近い。殺虫剤をかけて仰向けにもがいている虫を見ると「うわぁ生きてる」と過剰にビビってしまう。「まだ死んでないよどうしよう」という気持ちになる。そしてそれは多分人間にも同じことを思うと思う。どんな人間でもだ。生物が生きているという現象はとても素晴らしいことだが、同時にとてもおぞましい。何故なんだろう?自他を問わない現象としての死に対する根源的な恐怖だろうか?(男性にも同じぐらいビビる人間はいるだろう。そう考えると戦争というのは本当に忌まわしい)

そもそも突き詰めて考えると、私は罪を犯した人間のその“精神”が許せないのであって、肉体的に苦痛を与えたり損傷させることにあまり意味を見出せないっぽい。
少し前にTwitterで流行っていた、痴漢に安全ピンで刺そうという話もいまいちピンとこなかった(安全ピンだけに)。私も学生時代に古本屋で腹立たしい痴漢行為をされた事があって、人の多い中立ち読みしていたら、さっきからやけに尻に手をぶつけていく奴がいるな…と三度目ぐらいに気付いた。人が多いからかなと気に留めていなかったが、明らかにわざとだと確信し視線を上げたら、ぶつかるフリをして触る→そのまま本を見るフリをして棚の向こうを通り過ぎ、気付いたか気付いてないか顔を見て確認する→気付いてないようだから少し間を置いてまた通り過ぎざまに触っていく…というプレイを数回繰り返して“愉しんでいた”ようで、こちらを伺ったその男と目が合った。若い、ヘッドホンをした、ジメッとした印象の男で、目が合うとふいっと目を逸らしてそのままそそくさと店を出て行った。
その時抱いた憎悪というのはものすごく、まず自分の安全に極限まで配慮したあまりにもせこいやり口がムカついたし、ただ尻に手を接触させていくだけという行為に「それやって意味あんの!?」ということが全く理解出来なかった気持ち悪さがあったし、ヘッドホンしながら自分の世界に浸りつつ私のことを愉しむ道具として勝手に利用したんだなあと思うと何様なんだマジで死ねと思った。
それでもそういう人間に対し針で刺したり苦痛を与えることで何かマシになるものがあるかというと、別にないかな…と思う。私はあくまでそうした度し難い人間に対し、強いて言えばすぐ死んで欲しいのであって、それ以外は何も関心がない。痛い思いをさせて今後反省して欲しいとか、更生して欲しいとも思わないし、そもそもただ一度の機会として齎される身体的な痛みが精神を変えるキッカケになるか?というと望みは薄い気がする。抑止力としてのアピールや、防御のための反撃手段を持っているという実感も別にいらない。既に起こった事実の落とし前をつけて欲しいのであって先のことなどどうでもいい。
だとすると報復としての痛みということになるが、痛がるところを見たところで気は晴れない。むしろ苦痛に顔を醜く歪めた様は見苦しいので出来れば見たくない。(私はウケ狙いとしての変顔にも「きたねー表情だな」と心を冷やすタイプの女)
もし直後の腸が煮えくり返った状態の時に、ホシが目の前に引き出されていたとしても、蹴ったりはするかもしれないが傷の残るような何かをする気には勧められてもならなかったと思う。肉体が損壊することは軽微でもおぞましく、それは感情とは切り離された本能だ。私のあらゆる感情は本能を歪めるほど強くなく、感情の方が折れる。

話がまったく通じる気がしない上にこちらに向かってくるという点で、理性なく他人に危害を加える人間というのは物言わぬ蠢くゴキブリと同じような存在感になる。“現れない”こと以外に望めることはなく、触るのも叩くのも嫌だし死体も気持ち悪くて片付けられない、逃げて居なくなってもまだ家の中にいるんじゃないかとおちおち安心できない…つまり滅びてほしい、そういう存在だ。存在自体に、感情抜きでただただ困る。だから強いて言えば死んで欲しいかなあ…と思う。どうして欲しくもないからだ。
そして死を願うには罪が軽すぎる痴漢にそう思う一方で(勿論こけおどしとしてだ)、罪が重すぎる人間にはむしろ延命を望んでしまう自分がいる。大勢の命を奪った精神が、簡単に死んで欲しくないという感情がある。長く苦しんでほしい、ただやっぱりそこに肉体的な苦痛そのものへの興味はない。
新世界より』という作品で、超能力者が支配する世界での極刑に処された罪人が、最大級の身体的苦痛の感覚を脳に与えられながら治癒能力で修復されて永続的に苦しみ続ける、という罰を受けていた。可能でさえあればここまでの事を人間はやってしまうという露悪的なエピソードだと思う。さっき偶然今回の犯人にこれを望んでいる人を実際見かけた。歴史上に存在してきた拷問を見ても、罪の重さに肉体的苦痛の大きさで帳尻を合わそうとする考え方は人間の癖のようなものなのかもしれない。
しかし私は可能だとしても「意味あるのかなあ」という気分になってしまうと思う。反省も後悔も関係なくただ感覚的な苦痛だけに晒される哀れな肉の塊を想像する。一つの主観の中で起こり終わる現象でしかないその激しい苦痛が、何も産み出さないことに虚しさを覚える。
ここからいなくなれーっ!!という瞬間的な破壊願望はあるけど…そう考えると身体的苦痛という事象はシンプルで明確すぎるがゆえに、続くと“飽きる”のかもしれない。
強い身体的苦痛というのは確かに最大のストレスだと思う。しかし言葉も介在しない、感覚によって齎される苦痛に思考も奪われたまま浸され、肉体の反応として消耗していくのは言うなれば機械の苦痛であり、虫を虐殺するのとどう変わらないんだろうという気がする。虫の苦しみは人の苦しみではない。理性のない苦痛に意味はあるのだろうか。
むしろ一日の大半は平穏な、インターバルとしての人間的な生活がある上で、毎日定期的に決まった時間に激しい肉体的苦痛を受ける生活が延々と続く…という方がまだアリかなと思う。大事なのは感覚ではなくそれに対する恐怖ではないだろうか。死刑制度にも、私は死そのものではなく死刑執行に怯える心的状態を望んでいる。
あと、今読んでるドストエフスキーの本でこんな一文があった。『わたしはふとこんなことを思ったことがあった。つまり、もっとも凶悪な犯人でもふるえあがり、それを聞いただけでぞっとするような、おそろしい刑罰を加えて、二度と立ち上がれぬようにおしつぶしてやろうと思ったら、労働を徹底的に無益で無意味なものにしさえすれば、それでよい。』
確かに大人がやる賽の河原はより一層辛いだろう。いいかもしれないと思った。私の憎悪は肉体ではなく精神を壊したいのだと思う。そしてそんなことを可能にする力は私自身にはない。また、資格も無い。私は悪人にもなれないが善人にもなれないと知っている。

犯人は二日経った今、意識が戻らないままだという。おそらく息を吹き返すのは難しいのだろう。生きていても既往歴があるから精神鑑定が入って無罪の可能性もあるのだろうか。しかしもう、どうでもいい。死ぬかもしれないし、生き残っても火傷で苦しい余生となるだろうが、苦しいかどうかも大した問題ではないと感じる。何もかも取り返しがつかない。どうにもならないという事実を受け止める本能を前に、私の感情はまた健やかに折れようとしている。
どうして、という憤りが去って、ようやく痛ましさをそれそのものとして完結させられるようになった。
むごい事件だ。