8番倉庫

長文置き場

おらこんなお屋敷いやだ

私はありとアナクロな人間なのか、一番好きなゲームのジャンルがADVでして。人生最高のゲームはかまいたちの夜SFC)なのであります。
要するに絵と音楽がついた文字読むゲームですね。逆転裁判とかも(3までしかやってませんが)好きです。いやクロノトリガーとかFFも好きですけど、でもそういうのも台詞読んだり話がどうなるのかを単純に追いかけるのが好きなんです。戦闘とかレベル上げとかアイテム収集にハマる、という感覚はあんまり無いかな。
まあ会話のテキストぐらいなら、ある程度ストーリーのあるゲームなら要素としては大体のゲームが持ってる一面ではありますよね。流行りのFGOとか、やったことないですがキャプとか見る限りキャラとの会話シーンはADVっぽいし。ゲームの売りとして戦闘がメインなのか英霊との会話がメインなのか、その辺の詳しいところは分かりませんが。
劇形式ではない、終わりのないゲームというのは全然やらないし、続いた試しが無いです。幼い頃トルネコの大冒険をプレイして、初めて「不毛」という概念を心から実感させられたんですよ(偏見)
まあ私のゲーマーの素質のなさは置いといて、ADVというジャンルの特に優れた点はマルチエンディングシステムだと思います。同じ舞台設定、同じキャラクターによって様々な可能性と結末が見られる、という構造が他の媒体では中々お目にかかれないような展開のストーリーを見せてくれる傾向があるように思います。ちゃんとした結末はグッドで描くからええやろ的精神なんでしょうか。
かまいたちの夜も数ルートしかないグッドエンディングに比べて、圧倒的な数のバッドエンディングが待ち受けています。その結末がどれもね、良いんですよね…。バッドなんで犯人に自分が殺されたり恋人が殺されたりとにかく誰か殺されるんですけど、極限の状況の中、優れた文体で描写される主人公の恋人への想いがね…。胸をうつんですよ。恐怖、混乱、安堵、疑心暗鬼、勇気、悲しみ、絶望…そして愛。
ちなみに私の最推しEDは「鍵をはずして眠りに…」です。ツイッターのヘッダーにするほど好きなんです(自己満足の世界)

そしてADVというジャンルで無視できない存在が、いわゆるエロゲーであります。私は面白そうなエロゲのストーリーを片っ端からネットで読み漁って本当に面白そうだったら手を出してみる程度のあっさいプレイヤーなので、知識としてタイトルばっかり知っている、いわば金のない中高生みたいな触れ方してるニワカなんですけども。
今やってるのがですね、『夢幻廻廊』というゲームなんですがね。本題というのはこのゲームつらいよお~っていう愚痴です。
簡単に言うとSMの心理を追及したマゾゲーで、女装が似合う記憶喪失のカワイイ男の子「たろ」きゅんが謎のお屋敷の女主人に拾われて、かとるという人権のない身分としてそこで暮らし適応していく様子を描いた家畜体験シュミレーションゲームです。
えげつない、トラウマになる、さすがに引く、など数あるエロゲの中でも異彩を放つ極北のゲームとしてその筋では有名だそうです。
クロスチャンネルで咽び泣く程度の心優しい私がなぜこんなハードなやつに手を出してしまったかというと、人間心理のお勉強の一環として興味があったからなのですが、やってると実際辛いものがあるんですよ。
で、何故辛くなってくるのかということを考えてみたんです。というのも、このゲームには赤の章と黒の章という区分けでゲームがライトな段階とハードな段階に分けられてまして、私は今赤の章を大体クリアした時点に過ぎないんですよ。全然序の口、むしろこれからが本番という段階なのに既に割としんどいの。
別にそこまで痛いシーンもまだ無いし、まあこれから生ごみ食わせられたりくつしたしゃぶらされたりするらしいんですけど、でもそういう肉体的な、視覚的な、物質的なしんどさじゃないんですよね。
ストーリーも面白いし、ノリも暗くないし、笑えるシーンもあるんです。なんというか、辛くて苦しいからしんどいんじゃなくて、辛くて苦しいと思わなくなってくるのがしんどいんです多分。
このストーリーはループものでして、一つのルートがエンディングを迎えたらまた初めからお屋敷で記憶喪失で目覚めて、再び家畜生活が始まる…というのを延々繰り返す構造になっています。
お屋敷には拾ってくれた奥様の他に四人のお嬢様とメイドがおり、「かとる」は一日一回、お嬢様たちの誰かから「いっぷ」を受ける、というのがルールです。作中でこの二つは謎の単語として出てきますが、かとるはcattle…すなわち家畜、いっぷはwhip…すなわち調教ですね。
厄介なのは、あくまでいっぷは“しきたり”であるので、別にお嬢様たちは皆嫌って虐げてくるわけではないということです。むしろ皆たろのことを好きで、ちゃんと歓迎し可愛がっているのです。しかし扱いには容赦がない。そこに矛盾が生じないのは何故か?というと、“かとる”という身分、“お屋敷”という場所が「そういうものだから」という呪いをかけているのですね。
そもそもたろがちゃんと人間に見えているのは、四人のうち一番暴力的ないっぷをする次女の麗華様だけで、他の三人は人間にすら見えていないというありさまの様子。
しかしそんな暮らしにたろは適応していきます。というのも彼は以前お屋敷の外、娑婆にいた頃から現実が辛くて辛くて仕方が無かったのです。その辛い原因は彼曰く“孤独”であると。
ルートをクリアすると喪失していた記憶も戻り、主人公はお屋敷の外の現実へと帰るのですが、いつもその景色は灰色です。誰もが個の境界を守って触れ合わず、自分と他とがはっきり隔てられた明瞭な世界。現実では誰もあんなひどいことはしてこないし、誰もが優しくしてくれる。安全に生きられる。けれどそれは、誰も僕に興味が無いからだ、とたろは言います。そして、「お屋敷は違った…」と懐古するのです。
おそらくしんどいポイントはここです。どのエンディングを迎えても、外に出たたろは結局お屋敷に“自分の意思で”戻ってしまうのです。外に出ようと誓い合ったお嬢様が共にいてもお構いなしに、現実に耐え切れなくなって“帰って”しまうのです。
そしてまたループが始まる。またたろは記憶を失っている。何故かと言うと、お屋敷に来ると共に記憶を失わせる薬を投与されているから。生活が始まればその薬は毎日飲まされます。その効果で思考能力も落ちており、運動機能もちょっと弱くなっています。深くものごとを考えられなくなる。だから耐えられる。慣らされていく。恐ろしい場所なのですお屋敷は…。
しかしたろはそこに、確実な「幸せ」を見出してしまいます。そしてそれを荒唐無稽だと思わないほどシナリオが優れていて、説得力があるのです。
かつてたろは苛められていたことがあって、ひどく辛い目にあっていました。しかしその時期だけは、現実世界に色がついていたのだと述懐します。吐き気のするような極彩色の地獄。しかし自分を苛めて愉悦を得ていたいじめっ子たちからは、自分に向けられる強いエネルギーがあった。日常と言う名の灰色の生活で、ただ取り繕うために交わされる言葉には篭っていない、自分に対する強い関心が。
お屋敷にいて記憶を失っている間も、孤独であった灰色の日々の残滓が頭を掠めただけで、たろは涙を流してしまいます。そこでずっと感じていた強烈な“寂しさ”が、たろにとっては何よりも辛い感情だったのです。
だからね、たろにとっては“これ”が“幸せ”なのは“しゃあない”んだなって、嫌でも分からせられるんです。苦しみでもそれが自分のために与えられたもので、辛くてもその義務を果たしていることがたろという役割を満たすのならば、彼には居場所があり、安寧がある…。幸せになってしまえる…。
だから、かわいそうではないんですよ。そういう、もうやめてよ~っていう辛さじゃないの。なんというか、「なるほどね…(疲)」って感じかな。先の滅びが見えてるどうにもできない状況に置かれた可哀想な子の無邪気な笑顔を無力感とともに見守る感じ。

はあ…。これから「しゃあない」と理屈で納得させられたまま、ひたすらハードになっていくプレイを見せられる黒の章が待っているのか…。調教されてるのは私だよ。何といっても全ルートクリアすればお屋敷は“天国”になるそうだからな。精神が汚染されそうな気配を感じたらやめよう(戒め)
ゲームって映画や小説と違いプレイヤーとして自分が影響を及ぼすという構図を持っていて、物語の媒体として没入感が高いので危ない時は危ないですよね。こういう人格に影響を及ぼす系だと、他にもserial experiments lainなんかがすごいと思っているんですが。
ひたすらlainという少女にまつわる音声データと動画データを収集するだけのゲームなんですけど、膨大な彼女の日記データとカウンセリングデータ、カウンセラーの日記データ、カルテ、いくつかの映像データを見終えた頃には「lain」という存在がプレイヤーにインストールされており、それ自体がexperimentsだと知るというね。もう記憶というデータでlainを記録してしまったプレイヤーの中にlainは偏在するものとなる。
世の中にはいろんなことを考える人がいるな…。
というわけで、これは別にオススメ記事というわけではないのでご注意ください。
そうだ、こういうゲームがつらくなったらトルネコの大冒険をやろうかな。癒されるかもしれない。