8番倉庫

長文置き場

無敵の人?

日記というわけじゃないんですが、Twitterで呟いて思考の言語化をしたつもりになっていると長文をしたためる文章力が落ちていく一方なのでは…!?という危惧を最近抱いてやまないので、半年乗ってない私のバイクのようなこのブログをなるべくコンスタントに更新して文章力向上を図っていきたいと思います。(バイクもそろそろエンジンかけます)
テーマはなんか適当で。というか感想書いてたら長くなったから投下先に新しくブログでも作るか~というキッカケがゴールデンカムイの感想だっただけで、作成時からさも意味ありげな「長文置き場」という説明文を書き添えて色々書きまっせという態度をチラ見せしてはいたんですよね。しかし「おっ一度書いたし今週も書くか」の精神で惰性のまま何処にも行かず冒険しなかった結果が今のこの金カムファンブログ以外の何物でもない一本集中ブログですよ。私の体たらくなどこんなものなのだ。いやでもすごかったから樺太編の勢い…。
今の過去編も面白いし先週とか超笑ったんですけど、衝撃の展開で前のめってからの過去編突入で妙に冷静になってしまい、とりあえず正座して待ってる感じです。この過去編にどういうオチがつくのか分かるまでは何とも言えない。ただひとつ予想を立てるとすれば、金塊の在り処にはブラキストン線が関わってくるのでは…!?(明確な根拠はない)

というわけで今考えてる何か、というと今日起こった痛ましい事件である通り魔事件のことを主に今日は考えてました。
「無敵の人」ってワードがトレンドに入ってますね。少し前にもひろゆき氏がかつて語ったというこのワードがプチバズってた記憶がありますが、何の時だったかは忘れました。こういう「えっなんでそんなことすんの?」みたいな事件多すぎなんでしょうね。
このワードのツイートを覗いてみると、“失うものがないから恐ろしい凶行にも及べてしまう”こうした「無敵の人」を生み出さないためには…という文脈で社会制度とか福祉とかの問題に繋げたり、いや碌に犯人の情報も分かってない内から安易に財産や社会的地位に恵まれない人間の仕業に違いないと決めつけるのは差別だ、都合のいい説明を付けたがっているだけだ…という反論が出たりと色々活発な議論が起こってました。私はどちらかというと後者の立場かな。
しかしどちらにしても、こうして人の意識に引っかかって議論を呼ぶような定義を創れるひろゆき氏ってさすがだなと感心してしまう。匙加減が絶妙なのかな。複雑すぎず偏り過ぎず正し過ぎない。

で、何故どちらかといえば後者だと感じるかというと。無敵云々は一旦離れて、こうした恨みを持つ訳でもない赤の他人に無差別に危害を加える通り魔的犯行の裏にある心理というのは、一種のマウンティングだと思うんですよ。
復讐、道連れ、といった言葉も浮かんできますが。自分はまだ現実に影響を及ぼせる存在であると、思い通りに出来る部分があるんだということを実感するために弱者を“創り出す”必要がある。少しでも他より上でありたいサルの本能が、やはり人間には拭い去りがたく存在するのではないでしょうか?
痴漢等も性欲というよりこの心理の方が大きいんじゃないかなと個人的には思ってるんですが。恐ろしくスケベな人間だろうと、まともな頭してれば痴漢なんてしません。ああいうのは“欲求の対象への衝動的行動”だけで終わる話ではなくて、欲求の対象で実際に欲望を満たすことで、対象を自分の欲望への提供元、つまり“モノ”化して自分より下に置くことが出来る…という部分に強烈な精神的充足性があるんだと思います。痴漢は病気だとされるのはそういう事だと。要するに、精神安定剤にしちゃってるんじゃないですかね。
そして通り魔も、赤の他人に突然問答無用に暴力を振るえば当然脅威にはなれる。不意打ちのみならず、子供や女性を狙うケースが多いのは反撃の可能性が低いというのも勿論あるでしょうが、自分よりかけ離れた存在、対象化しやすい弱者でなければ脅威としての自己の優位性が実感し難いからかと。同じ男性という条件が揃っていると比較してしまえるし。

卑怯、というのは当たり前だとして、こうした赤の他人への加害心理で問題なのは①理想と現実にギャップを抱えていてそれを消化出来ていないこと、②ギャップを埋めるために他者の存在を頼っていること、の二点だと考えています。
最近私の中でホットなキーワードに「学習性無力感」というのがあるのですが。どんな動物でも、合理的な理由のない罰を自分では回避出来ない状態で長期に与えられ続けると、回避行動そのものを諦めてしまい、うつ病に似た症状を呈するという実験結果があるそうです。
二匹の犬に電撃を加えるが、一方の犬の部屋は電流を止める手段が用意されているのに対して、もう一方の犬の部屋には何も用意されない。電流を止める手段を学習した犬が自分で止める一方で、何をしても電流を止められないと学習した犬は止める手段を探すことすらしなくなる。その後止める手段のある部屋へ移しても、止められない側の部屋にいた方の犬は行動を起こさず甘んじて電流を受け続けるようになる…。
こうした習性には勿論人間も例外ではなく、パワハラされても辞めないブラック企業社員とか、DV家庭に共依存してしまう人とか、何をしても無駄だと抜け出すこと自体をあきらめてしまう例には枚挙に暇がないほど社会に溢れています。
赤子の頃は特に影響が大きく、泣き声に反応してもらえない状況が長く続くと免疫機能が低下してしまうとか。人間は動物と違い生まれてすぐ立ったりはせず、一年以上他者に完全に依存して成長する生き物です。なので保護者の不在が生存の危機に直結するために、それが得られないという状況から受けるダメージが大きいのでしょう。
とにかく生き物には、あと一歩踏み出せば助かるかもしれない状況が訪れたとしても、「何をしても無駄だ」と“学習してしまった”時にはすべてを諦めてしまうようになる…という現象が存在するのです。

で、上記の問題の①なのですが。周囲を傷付けて利用してまでの自己実現に走るほど、現実に忸怩たる思いを抱いている…ということはつまり「諦められてない」ってことですよね。
日本は毎年一年に二万人以上自殺しています。件の無敵の人の記事でも、「たまに、自分を殺して社会から卒業するのではなく、他人を殺すことで社会から卒業しようとする人たちがいます」として“他殺”側に回る人のことに触れています。
私は自殺=諦め、ではないと思うんですよね。自然死でもないのに死ぬというのはアクティブな行動じゃないですか。むしろ諦められないから手段として死を選ぶのだと思うんですよ。(自殺教唆は殺人の方にカウントします)
本当に諦めるっていうのは死ぬ事も諦めることだと思います。今の自分の状況、それを心のどこかを殺して受け入れる、ここに留まる、そういう地に根を張る静止こそが“諦める”ってことなんじゃないかと。
そして大人になるって事は大なり小なり何かを諦めることだと思うんですよね。自分の分を知るというか、何かへの期待というものがあったとして、それが叶わないことを仕方ないと受け入れる。
現実の状況に適応する、ということが学習ってことだと思います。そうなると、一言も喋らず誰とも交わらずただ働いて食い堅実に現実の日々を生きている自立した人間が大勢いる一方で、同じような現実の状況に「誰も俺を受け入れない!」と孤独を受け入れられずに適応障害を起こす人間がいるのは何故なのか? 彼らは何故あくまで歪んだ社会的優位性へのこだわり、社会的自己への未練を捨てられないのか? と考えてみると。私の結論としては、電流が足りないんじゃないかなって。
だから“失うもののない”という論調に疑問が残るのはそこです。そもそもいい歳まで生き延びてる時点で本当の底辺とは言えないと思うんです。底辺であることを受け入れられないというのは、つまり本当の底辺じゃないからなんですよ。本当にどうしようもない状況に置かれた生物は、もっと絶望して自分の分を知っている筈なんです。電流を受け続ける犬のように。
半端に生活は出来ていて、少なくとも生存は維持出来るから、そこは満たされているから、充たされていない社会的自己の充足に走る。
そしてそこで②の問題、理想よりも低い自己を少しでも上げる方法として、自分より弱者を作って賄おうとする問題。決闘する動物同士のようにマウントを獲り合うでもなく、負かされる危険を冒さず一方的に弱者になってくれる存在に自己充足効果を依存するという発想は、無条件に自分に有益な他者を期待するという点で、泣き声に反応して貰えるかどうかに左右される赤子の論理に似ています。
そこを諦められてないというのは、やはりこれもある程度甘い環境で育ったのかな…という結論になる。自殺に走る人よりもなお“諦められていない”。

しかし甘いんだよもっと電流を流せといったところで即人権侵害の問題に発展することは目に見えているので結局は与太話にしかならない。電流って何だよ、ってなるし誰が流すんだよ、ってなるし対象者をどう見極めるんだよ等々。政治側が手出したって碌なことにならないだろうし。具体案を出すとすれば「時計仕掛けのオレンジ」とか「カッコーの巣の上で」とかどうしようもない発想しか浮かびません。
最近話題の痴漢対策に安全ピン、という話も難しい問題ですよね。リプ欄で「叩いたら舌打ちされて鳩尾に思いっきり肘鉄されてしばらく動けなかった」とか悲惨すぎる体験言ってる人も居たし。でもあり得そうな事だなと思える。優越感に浸りたくてやってるのならば。
社会という幻想にしがみ付く地縛霊のように、浮かばれない自意識を持て余した困った人たち…彼らはどうしたら人を傷つける犯罪を起こさずに生きられる個体へと適合できるのか。今の私には洗脳・改造・抹殺のいずれかしか思い浮かばない…。もっと現実的な解決策が浮かぶように精進します。