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長文置き場

おらお屋敷さ行くだ(夢幻廻廊感想)

クリアしました夢幻廻廊! 『天国』(全クリENDのタイトル)に行けました! 前回赤の章でダレてて「おらお屋敷さいやだ」というタイトルでこのゲームについてちょろっと書いたんで、クリアした万感の思いを込めて伏線回収のようなタイトルをつけてしまいましたが、すみません行きたいのは嘘です。実際自分が行くのは絶対にいやです。

でも見てるぶんにはとても面白いゲームでした。というわけで理解したことを整理するため改めて感想書こうと思うんですが、超ネタバレして書きますのでご了承ください。そしてこれはオススメ記事というわけではありません。責任取れない程度にはハードな内容だったということと、その上で、私がそれを笑いながらプレイできる人間だと知られたくないので(保身)

永劫回帰

しかし、主なることは、どんな人間でももう一人の人間に牧歌という贈り物をもたらすことができないことである。これができるのは動物だけで、それは《天国》から追われていないからである。人間と犬の愛は牧歌的である。そこには衝突も、苦しみを与えるような場面もなく、そこには、発展もない。カレーニンはテレザとトマーシュを繰り返しに基づく生活で包み、同じことを二人から期待した。
もしカレーニンが犬でなく、人間であったなら、きっとずっと以前に、「悪いけど毎日ロールパンを口にくわえて運ぶのはもう面白くもなんともないわ。何か新しいことを私のために考え出せないの?」と、いったことであろう。このことばの中に人間への判決がなにもかも含まれている。人間の時間は輪となってめぐることはなく、直線に沿って前へと走るのである。これが人間が幸福になれない理由である。幸福は繰り返しへの憧れなのだからである。
そう、幸福とは繰り返しへの憧れであると、テレザは独りごとを言う。

『存在の耐えられない軽さ』より。
幸福とは繰り返しへの憧れ。つまり人間が幸福になれない理由とは、繰り返すことを望めないこと。なぜ人はそれを望めないのか?
ひとつは変化や発展のないコミュニケーションを人間の精神ではずっと続けることが出来ないため。
そしてもうひとつは、永遠に続くものなど無いと知ってしまっているため。
どちらも人間であるが故の原罪です。人は知恵の実を食べて天国を追われてしまいました。
翻って京極堂は言いました。「幸せになることは簡単なことなんだ。人を辞めてしまえばいいのさ」と。
言ってみればこの『夢幻廻廊』というゲームはその言葉を実践してみせる物語です。京極文脈では“彼岸”と称されたその境地、過去も未来もない現在性だけに揺蕩う不変の世界、動物だけに許されるはずの“永遠の幸福”。それをヒト家畜の“かとる”にまで堕ちることで手に入れる…それがこのゲームの最終目的地、“天国”です。
人間をやめて天国へ行こう!(スローガン)

というわけでこのゲームの構成ですが、舞台は“お屋敷”と呼ばれるとても巨大な謎の館です。そこで主人公は記憶の一切を失くした状態で目を覚まします。目の前には『環』という名前の館の女主人がいらっしゃり、記憶の有無を主人公へと尋ねます。
主人公は何も覚えていないはずの過去へ、しかし恐怖感と拒絶感を覚え、その“奥様”に涙ながらに頼み込みます。他の場所には行きたくない、どうかここに置いてくださいと。

「自分の居場所は、誰かの役に立つことで得られるものですよ」
黒い服の女の人は、静かな口調で語りかけてきます。
誰かの役にたつこと……こんな僕に、一体何ができると言うのでしょうか?
何も無い。
一切を失くしたこんな僕に。
過去も未来も失った自分に。
自分自身の面倒さえみられないような今の僕が、他人の役に立つことなどできるのでしょうか?
僕は、泣きそうなほどに不安になってしまいました。
ですが、女の人は、僕にこう言ってくれました。
「あなたがそうあることを望むのなら、“かとる”として屋敷に置いてあげましょう」

そうして“たろ”という名前と“首輪”を贈られ、スタートするお屋敷での“かとる”生活。
広いお屋敷には奥様の他に、四人のお嬢様と二人のメイド、そして主人公の“たろ”を含めた“かとる”が二匹いるだけ。
“かとる”の身分の者は、昼間はメイドさんのお手伝いをして、そして夜になると一日一回お嬢様の誰かひとりから“いっぷ”を受けるのが決まりである。(Whip=調教)
ゲームとしての選択肢は、「今日は誰が“いっぷ”をするか」を四人の中から選ぶというだけ。どのお嬢様にいっぷされるかによって話の流れが決まる。
このゲームの白眉なシステムは、通常ADVゲームならどんな作品でも備えている『選択肢で特定のキャラのルートに進み、クリアする→初めに戻って別のキャラのルートをクリアする→初めに戻って(ry』という物語の繰り返し構造を、そのまま作品内の世界構造に組み込んでいるということ。
一つのルートは二十日でひとまわりだが、どのお嬢様もいっぷを続けて関係が深まると、最終的に“たろ”をお屋敷から逃がそうとする。何故ならそのままお屋敷にかとるとして居続ければ死ぬ、ということを皆わかっているから。死ぬのはお屋敷での扱いとエグい調教のせいなのだが、調教含むお屋敷での生活を共にして絆の芽生えた“たろ”を皆死なせたくないのである。ただ、三女の裕美子だけは例外だ。詳しくは後述するが、彼女だけはお屋敷でのかとるの扱いがヤバいという事をそもそも理解していない。彼女のルートの場合は“たろ”が彼女を連れて行くか、拒絶されてやむなく一人で出て行くかの二択である。ただ、どのルートでも最終的に一度外に出るのは変わらない。
しかし作中で「川で生きる魚と海で生きる魚」で例えられたように、“たろ”はお屋敷の外では生きながらにして死んでいるような人生しか送れない。一度知ったお屋敷での生活を忘れられない“たろ”は、記憶を取り戻し現実に還っても、必ず再びお屋敷に戻ることになる。
そして彼が戻ることを選択した時点でゲームは一旦終了し、もう一度物語の冒頭、すべての記憶を失った状態からプレイヤーはやり直すことになる。が、実はこの二週目の記憶喪失の“たろ”は、先ほどエンディングを迎えてお屋敷に戻った“たろ”のその後である。記憶は薬によって人為的に消されている。なので“たろ”の主観では常に初めてのお屋敷の日々だが、現実には同じことを記憶をリセットして何度も何度も繰り返しているのである。そうなると最早一週目の“たろ”も初回だったのかすら定かではない。
何のためにそんなことをしているのか?
勿論“調教”のためである。何度も何度もループして、“たろ”は知らず知らずのうちにお屋敷に順応していく。
初めは“人間”だった自認が、ループを繰り返すごとに“犬”になっていく。
どうして“人間”であることを忘れて“犬”になる必要があるのか?
人間同士では幸福になれないからである。人間の愛は我欲ゆえに牧歌的ではなく、また人間は延々と同じことを繰り返すことに耐えられない。
このお屋敷の目的は“幸福”であり“永遠”。その二つは不可分のもの。喪失の痛みのない幸福、幸福の摩耗しない永遠でなければ、幸福とは言えないし永遠とは言えないのである。

しかし“永遠の幸福”のために犬になる必要があるとして、それは「永遠を幸福だと感じる」ようになるための、いわば準備に過ぎない。
人間なら知っていることだが、無限のものなどこの世にはない。誰しも歳を取り死ぬ。人生は一回きり…では肝心の“永遠”とは具体的にどういうことなのか? SFなのか? 不老不死になるのか?
この物語の一番すごい所はここで、マジに“永遠”を実現しながら、SF要素に一切頼っていない。実際あるもので確かに“永遠”だと納得できる構造を作り出しているのだ。

まず前提として、“永遠”なのは“お屋敷”だけ。
ではお屋敷とは何か、というと先ほど述べた通り。『環』という奥様がいて、『薫子』『麗華』『裕美子』『奈菜香』という四人のお嬢様がいて、『麻耶』『志乃』というメイド二人に、『たろ』『グモルク』というかとるが二匹いる広い洋館である。
一日一回いっぷをする決まりがあって、あとは皆で食事したり遊んだり生活を共にする、閉鎖的で穏やかな日々。それを、二十日ごとにループする。それが“お屋敷”という世界。
三女を除くどのお嬢様のルートでも「このままここにいたら死んでしまうから」と“たろ”を逃がそうとする…と書いたように、お屋敷の日々は文字通り死ぬほど過酷なものだ。
まず食べ物は基本ドッグフードである。他にも悪意なく生ゴミとか雑巾とかゴムとかゴキブリとか食わせられたりするイベントが必ず二十日に一回ある。あと炎天下の中素っ裸で四つん這いでアスファルトを散歩させられるのが日常で、続けていると脚がどんどん悪くなり、四つん這いのままひょこひょことびっこを引きながら移動するしか出来なくなる。寝るとき服は着させて貰えないし、毎周一回は風邪で寝込むイベントもある。靴下を後生大事にしゃぶらされたり、ボロボロになるまで鞭で痛めつけられるのは日常だし、とにかく書ききれないほど「死ぬ~wwww」という目に遭うので、“かとる”は短命である。
それだけでなく、長女の薫子も病弱で臥せっていて、“たろ”人間時のルートでは最後には命を落としてしまう。次女も人間ルートでは共にお屋敷を出て、“たろ”だけ戻るが麗華はそのまま戻ってこない。
しかしそんなルートを終えた後、次のループでは居なくなるはずの“たろ”も薫子も麗華もこれまで通り、同じ日々に同じように登場する。変わらない。何事もなかったように、リセットボタンを押したようにそこに存在する。しかし一度過ごしたループは現実の過去である。どういうことなのか?
つまり、お屋敷の構成員というのはすべて消耗品なのである。いなくなったら補充される。「私が死んでも代わりはいるもの」を地で行く世界。
『何を言ってるの? 同じ人間は二人といないんだよ? 皆かけがえのない一回きりの人生を生きるオンリーワンなんだよ?』
そういう“常識”はお屋敷では通用しない。

カウボーイビバップの「よせあつめブルース」でこんな一節があった。

食いモンはとても大切だ。なにしろ人間の体はそいつが食ったモンで出来ているわけだ。もし俺のクローン人間がいたとして、そいつがハンバーガー以外食ったことがないことにしよう。そいつと俺は遺伝子的には同じでも、まったく違った人間になるはずだ。ハンバーガースパイクは俺よりも怒りっぽいかもしれないし、日曜には教会に行くような男かもしれない。凶暴な賞金首かもしれないし、Yシャツにはアイロンをあててから着るような男かもしれない。いずれにしても、ハンバーガースパイクは俺とは別人だ。要するに食い物を選ぶときは、よくよく考えて選ばないといけないってことだ。
スパイク「こっちはロブスターの味噌煮と」
機械『カシコマリマシタ』

納得できる話である。今すぐ私が分裂してまったく同じドッペルゲンガーが誕生したとして、これから私はサラダチキンしか食わない、もう一人の私はラーメンしか食わない、という生活を始めたとしよう。一年経って、その時“もう一人の私”は一年後の“私”の完全なコピーだと言えるだろうか? 言えるはずもない。体力も違う、体形も違う、精神状態も違う。そうすれば選択する行動も、周囲からの反応も、それに伴う現象も、すべてが異なった一日を過ごすことになる。違う行動をとる二人の“自分”は客観的に見て最早同一人物ではない。
そしてこれは食べ物の話に留まらない。“私”はせっかくタンパク質とってるしと筋トレを日課にし、“もう一人の私”はせっかくラーメン食ってるしとラーメンブログを日課にしたとする。異なる習慣を取り入れ続けた結果、客観的な行動だけでなく主観的な考え方や思想、つまりは性格も違うものへと変化するはずだ。筋トレという日課を遂行するため私は有効な筋トレメニューについてやモチベーションアップのための情報を調べ、筋トレ界隈の文化に染まるだろう。プロテインの味についてレビューしたりするかもしれない。同様にラーメンブログを始めるに当たって近所のラーメン店を調べ、他のラーメンブロガーの記事を参照したりする内に私はラーメンブログ界隈の文化に染まるだろう。「5分程度で着丼。麺リフトです」とか画像付きで当然のように記述するかもしれない。毎日こなした筋トレ内容やプロテインの味を書いたりする私と、毎日食ったラーメンのスープの味や麺の固さと店の雰囲気をレビューする私、二人は同一の人格だと言えるだろうか? こいつら絶対話合わないだろうなとしか思えない。
他人にとっては尚更だろう。毎日ジムに来てスクワットしていくマッチョと、毎日ラーメン屋に来て写真撮っていくデブ。同じコミュニケーションが発生するわけもない。違う扱いをされ、違う自己認識を得て、違う行動をとり、やがては違う寿命で死ぬはずだ。
そう、他人にとって、ということが重要である。他人がいなければ“自分”という概念も必要ない。自と他を分ける、つまり“この個体”が他人にとって“私という人間”として認識されているのは、私とラベリングされた人間の存在によってである。そしてその中身は、環境や習慣、外部からの入力によっていくらでも変化し得るものなのだ。逆説的だがロブスターの味噌煮スパイクも、ハンバーガースパイクも、他人からしてみればどちらもスパイクなのである。

奥様である環と、先輩かとるのグモルクは繰り返す二十日の間で、毎回ゲームをしている。それは盤上に黒と赤の駒が並び、稼いだポイントを競うもの。実はそれは、我々がしているこの夢幻廻廊というゲームと同じ内容だ。いっぷをする娘たちが駒。駒を使い、毎ターンごとに“たろ”の調教ポイントを稼ぐ。周回が終わればまた初めからやり直し。ゲームの外では“私”が、ゲームの中では環とグモルクが、このゲームのプレイヤーなのである。
環とグモルクは折に触れて“この世界”の仕組みを喋る。

「お前だけが“たろ”ではないし、本質的に、お前が“たろ”というわけではない」
「え……?」
「“たろ”というのは、“かとる”の名前だ。“かとる”というのは、役割だ」
グモルクさんは、盤上に注意深く視線を向けながら、僕のほうはまるで意識していない様子で続けました。
「つまりお前もまた“たろ”だが、ずーっと“たろ”という存在がある。お前の前も……」
グモルクさんはそういうと、盤から顔を離して、手の中のコインを数えました。
「おそらくは、後も」
「後……」
「不思議がることじゃないだろう。お屋敷は永遠だ。お前が永遠ではいられないなら、お前の後にも“たろ”がある」
「だけど、それは悲しいことではないのよ?」
奥様が優しい声でおっしゃいました。
「永遠に続く個人がなくとも、永遠に続く役割があるならば……」
「生き物が何故、子を残すのか。それは、遺伝子という形で、自分を永遠に残すためだ」
「遺伝子……」
「そうすれば、永遠であれる。だが、子は自分ではない。なら、自分とは、なんだ?」
「自分……自分は……」
僕は、考えた事もない問いかけに、うつむいて、考え込んでしまいました。
僕には、記憶がありません。思い出も。だけど、間違いなくここにいます。
僕って、なんなのでしょう?
ブラックボックスだよ」

“たろ”は名前も過去もすべてを忘れた状態でお屋敷に居る。“たろ”という名前も奥様に与えられたものだ。今や彼の存在を他者から「それ」だと認識させるものは、“たろ”という与えられた名前と“かとる”という与えられた役割に従おうと起こす行動、その主体者としての規定、それだけ。
名前を与えられる前、語り部である彼は記憶を失くした己の状態について「そう、僕は感覚器の集合体――ただそれだけの存在に過ぎませんでした」と述べる。
誰でもない、まっさらな、主観と肉体だけの存在。

人という容器には、様々な色、様々な形、様々な意味が、口いっぱいに溢れんばかりに詰め込まれ、それらの色や形や意味が相互に作用し、関連し合い、それで人が人として成り立っているはずなのです。
自分のなかにあったそうした雑多なものを、僕はどこで落としてきてしまったのでしょう?
それさえも思い出せません。
多様な部品から、精緻に組み上げられて自分という機械はあったはずなのです。今や僕は、外装だけの空っぽな存在になってしまいました。
僕から失われたものたち……これまで生きてきた日々に、見たこと……、聞いたこと……、話したこと……、考えたこと……、感じたこと……、思ったこと……、印されたこと……、刻まれたこと……、塗布されたこと……、長い年月を費やして、蓄積された事象の絡まり合い、価値観、知識、思考、感情、経験、それらの複雑な連関、そういった過去の喪失は、その継続としての未来の喪失でもあるのでしょう。
人は過去を寄る辺として、現在を生きて行くものだと思います。未だ生きられない時が、選ばれる前のその時が、きっと未来なのです。
僕は過去を失ったと同時に、自らがこれから向かうべき未来も失ってしまったと言えるのです。

思えば人はどれだけ多くの中身を“自分”という箱に詰め込まれていることだろう。そして他人にとって、ある人間を“それ”として規定付けるのに必要なものの、どれほど少ないことか。
ワイヤードという他人とつながるための空間に必要なものは何か、という問いにlainは「意思と存在。あとはただのデータ」と答えた。私という存在とそれに宿る主観、あとはただのデータ…しかしそのデータこそが名前であり、属性であり、習慣であり、過去であり、つまり“他者にとって読み取れる自分”の全てなのだ。
主観的な自分と客観的な自分、その絶対的で唯一の違いとは主観の有無だ。他者からは類推するしかないその主観の在り様を客観的に“人格”と規定する。ならば人格とはつまり“どういうもの”なのか。

「行動パターンということね」
奥様は、ゲーム盤の上に、静かにコインを置きました。
「つまり、なにをされたらなにを考え、なにをするのか、そういう行動パターンが、人格ということよ」
僕が何かを言うより早く、グモルクさんが手を叩きました。
「あ……そうきますか」
「定石でしょ?」
僕は、お二人のゲームを楽しむ会話に、いいたい言葉を忘れてしまい、口をつぐみました。
「環境に対するリアクションパターン。人格とは、つまりはそういうものなの」
盤上から目を離さないままで、奥様はお続けになりました。
「パターン……でも、だとしたら……自分と同じ、その、答えを返す人がいたら……それは、それはもしかして……」
「同じ人格なのよ。少なくとも、客観的には」
「我、思わずとも我あり」
「…………」
「そして、そのパターンは、環境によって作り上げることができる」
「環境……」
「そう。環境」
首はゲーム盤を向いたままでしたが、奥様の目が、僕に笑いかけました。
「妾の、名前の一文字」
「そして環境を閉鎖すれば、入力パターンが減り、なお人格コピーを作り上げることは容易になる。それが、このお屋敷さ」

“たろ”という名前を与え、“かとる”という役割を与え、しなければならない行動、とらなければならない態度がその存在に規定される。そこから、それに沿おうとする意思が規定される。従順にせよ抵抗にせよ、与えられた役割がその思考を縛る。
「名前とは、ポジション、と同じだ。名前を与えると、それに似合う振る舞いが身につく」とグモルクは言う。
いきなり『“メイド”の“麻耶”』をやれと言われて、出来るかどうか。無理だと思うと答える“たろ”に、グモルクはできるさ、と断言した。

「メイドっていうのは、特別な才能が必要な役割じゃない。鳥みたいに空を飛ばなきゃいけないわけじゃないからな。
その名で呼ばれ、その仕事を理解できれば、誰にでもできるようになるんだ。
周りがみんなで、そいつの役割を決め付けて押し付ける。そうしているうちに、誰しもその役割を演じるようになるんだ。それが、このお屋敷の仕組みなんだよ」

このお屋敷では、役割ではない者はない。
記憶のない“たろ”は知らないが、前のループでいなくなったはずの構成員が必ず次のループでは復活している。何故か?
それは誰でもない主人公が『“かとる”の“たろ”』という役割を与えられてそれになったように、『“長女”の“薫子”』も『“次女”の“麗華”』等も役割だったからだ。
そしてそれは、『“奥様”の“環”』すらも例外ではない。
“かとる”は人間だが、“メイド”も人間ではないのだと麻耶は言う。メイドは家具だ。お屋敷という環境を整えるための、ほうきやちりとり、ナベやフライパンの一部だと。
ではお嬢様たちは? と尋ねる“たろ”に、麻耶は「あれは、奥様の調教対象兼調教道具」と答えた。

「このお屋敷は、お嬢さまを調教する、ただそれだけを目的に、作られているの……」
「…………」
あまりに荒唐無稽な話でした。
僕は、しばらく言葉を失ってしまいました。
「奥様は、お嬢さまのうち一人を、自分と同じ人格に作り上げるの。そのためには、このお屋敷でなければならず、姉妹は4人でなければならず、“かとる”、つまりペットが必要で、メイドは二人、いなくてはならないの。私たちは、一人の狂人が、自分と同じ人間をつくるためにしている調教の、道具に過ぎないのよ。鞭や、ロープのような」

前に、行列への並び方の国民性が一目でわかる画像、というのがバズっていた。中国の行列は前後の人間とゼロ距離に近いほど隙間が近いが、フィンランドは三人分くらいの広いスペースを空けて全員が等間隔に並んでいる。
その場の全員に同じ行動をとらせるもの。それは環境だ。気候や土地柄、慣習、言語、マナー、価値観…それらが組み合わさる事で、ほぼ全ての人間が同じ振る舞いをする空間が出来上がる。人類学を考慮すればそこには遺伝的、人種的な器質も関わってくるのかもしれないが、狼に育てられれば狼と意思疎通できるように育つ事例まである以上は些事と考えていいだろう。
今“私”という人格が出来るのには様々な条件があったはずだ。二度と再現不可能な環境からの入力を繰り返して、その記憶と経験に基づいた判断基準や価値観を有している以上、今の“私”と全く同じ人格を作成するのは無理だ。だがそれは絶対的な意味合いでの話に過ぎない。
それほど厳密に同一である必要は無いのだ。ただ何かしなければならない状況があった時に、同じ行動をとるように出来ればいい。表面に出てくる行動が同じならば、同じ働きをする人間だと言うことが出来る。もし私にフィンランドという環境を与えれば、私は同じ並び方をするだろう。フィンランド国内にも勿論多様な家庭があり、街があり、コミュニティがある。しかし同じ並び方をするようになるには、フィンランド国内という条件設定があれば足りるのだ。

コミュニケーションとは本質的には「分からない」ものだと環は言う。
「あお」と言われてどんな色だと思うかと尋ねられ、“たろ”はお空の色だと答えた。しかし海の色や紫陽花の色、「あお」にも色々ある。言葉にした時点で、本当に表現したい心からは外れてしまう。クオリアを人と共有することは出来ない。
その上で、何かと何か、誰かと誰か、何かと誰か…二つのものが触れ合うということは、イニシアティブ(主導権)の奪い合いでもあるのだと説く。

「主従関係が定まらないと、言葉は平行線を辿ってしまうの。だから、事前に主従関係を結ぶ必要があるのよ。主導権を握る側が話を進める。そうでない側は、主導権を持つ側が求めている言葉を捜す。これは、円滑なコミュニケーションの形なの。
煩わしい主導権争いは、会話が始まる前に終わらせてしまうべきなのよ。つまり、そういう環境を設定することで、スムーズな会話があるわけね。
なにより、相手がなにを望んでいるか、それを探ることが、相手を理解することに近づいていくのよ。相手が、なんと言って欲しいのか。それを察するということね。
そして、理解してもらうためには、それを察させる環境を作ること。または、察することがなくとも、その言葉しか言わないよう、人格面から選択肢を囲い込むこと」

マックでハンバーガーを買ってこいと言われて買えない人間はあまり居ないだろう。ホストであるマックが主、客の我々が従。「いらっしゃいませ、ご注文をどうぞ」と言われたらメニューの中から選ぶ。代金を言われて払う。受け取って退店する。とるべき行動が完全にホスト側から選択肢として囲い込まれているため、“人として”コミュニケーションする必要がない。“定員”と“客”という役割でコミュニケーションを完結させることができる。

「心と心が通じ合ったときと、同じことが減少として起こり続けるのならば、互いの心に何の交流が一切なかったとしても、それは……心と心の交流がなされているのと、なんの違いもない。このお屋敷での生活は、現象面を整えるものなのよ」
「現象……?」
「現実、と言ってもいいわね。
たとえば、この世界に万有引力なんかなかったとしても……別の力によって、同じ現象が起こり続けるのであれば。万有引力の法則は、いつまでも成り立ち続けるでしょう」
「万有……?」
「“たろ”が掃除しようと、麻耶が掃除しようと、廊下が綺麗になるのなら、同じことということよ。妾が麻耶に掃除を命じていて、一方で、“たろ”が気を利かせて掃除をしていたとするわよね。妾にとっては、現象として廊下が綺麗になるならば、それはどちらの仕事であろうと等価なの。
たとえ、麻耶と妾の間には意思の疎通があって、“たろ”は、ただ暇つぶしの掃除だったとしても。廊下が綺麗になる、という現象そのものに、妾の意思は、関係ないものなのよ」

例えば昔、ほとんどの人間は空が回っているのであって、地面は動いていないと思っていた。いや地面が動いてんだよと言ったガリレオガリレイはでたらめを言う異端者として裁判にかけられた。実際、現在は常識となった重力や地球の自転といった知識を備えず、朝が来て夜が来るのだという現象だけしか認識していない人間にとって、どちらの方が尤もらしいだろう。自分は一歩も動かずにいるのに、空は流れて陽が沈む。空が動いているのだと、そう結論して何の支障があっただろうか?
彼らは絶対お空が動いてるんだもんとムキになったのではない。主従で言えば我々が主だ、従たるお前が我々の面子を潰すようなコミュニケーションを発生させるなという社会的な圧力をかけたのである。地動説は“要らなかった”のだ。

「心と心が通じる会話が欲しいならば、心と心とを通じさせることが必要、ということでは、必ずしもないということね。心と心が通じ合った会話を先に設定して、その通りに返答するよう、条件付けをすれば……そうすれば、犬やカエルとでも、心と心が通じ合ったやりとりが、できるわ。妾が『わかりません』と答えて欲しい場所で『わかりません』と答え……『わかりました』と答えて欲しいところで、『わかりました』と答えられるなら、実際に理解している必要さえ、ないの」

「このお屋敷は、大きな……それは、空間においても時間においても、とても巨きな、心を通じさせる装置なのよ。四人の娘。二人のメイド。“かとる”が二匹。それが、お屋敷という装置」

麻耶は“たろ”をこのお屋敷から解放したいと願っている“メイド”である。メイドは便利な家具という役割だから、“環→お嬢様→たろ”という調教における階級の外側で、周囲の環境を整える備品に過ぎないと考えている。
しかしメイドも、その存在自体が周囲の者に対する調教の装置の一部だ。もう一人のメイドである志乃は、この屋敷のメイド二名の内、一人は片方の握力を少しだけ弱くされる決まりであることを“たろ”に明かす。僅かな左右差が感覚を崩し、そのメイドは物をしょっちゅう取り落としたり、何もないところで転んだりするようになる。

「このお屋敷に来てから習ったのだけれど、江戸時代には、怒られ侍ってのが、いたんだって。お殿様の子供を育てる時に、一緒に育てられる乳兄弟がいるのね。教育係も家来だから、若様を叩くことはできないでしょ? だから、同じミスをしたときに、その父兄弟が手ひどく虐められて、それで、若様はしていいことと、してはいけないことを学ぶんですって」

失敗ばかりでドジなメイド。それは偶々そうだったのではなく、“そう存在する”ことで役割を果たす装置の一部として用意されたものだ。
誰かが何かに影響を与えて、不可分のものとして作動する一個の装置。
だとすれば麻耶が“たろ”を解放したいと願う罪悪感すらも、そうあるべき“設定”なのだろう。ループしていると分かっているはずなのに、麻耶は“彼”がかつての彼女の罪そのものであるはずがない事を“認識”していなかった。

お屋敷には様々な仕掛けがある。歪んだ廊下であったり、壁に向かってまっすぐに伸びているだけの奇妙な階段であったり。その一つ一つが無意識下に働きかけて精神に微妙な影響を齎してくるという構造は、麻耶雄嵩の『蛍』や『夏と冬の共鳴曲』を彷彿とさせる。
まだ自意識が人間だった頃、壁に等間隔に並ぶランプのうち、一つだけが空の鳥かごであることに“たろ”は気付いた。どうしてだろう、と考えた。
しかしループが進むと、グモルクに言われるまで鳥かごの存在を気付かなくなる。そして気付いても、「どうしてだろう」とは考えなくなる。
お屋敷の多くのルールの内で、最も重要なものはこれだろう。
ある周回で不可解な事態に出くわして、疑問を持つ“たろ”に麻耶は言う。

「“なぜ”とか“どうして”とかいう感情は持つな。それは無意味なだけではなく、おまえ自身を不必要に苦しめるだけだ」

なぜ…。どうして…。目の前の現実に対して、そんな疑問を抱くことは、ここでは悪いことなのでしょうか? 麻耶さんの言葉を聞いていると、どうしてもそのようにしか理解できません。
つまり……、ぞっとする考えに、僕は至りました。
ここでは、僕は人間であることを求められていない。
そういうことではないのでしょうか…。

そして理不尽な“いっぷ”が終わった後、麗華と薫子が会話する。

「こんなことに……何の意味があると言うんだ」
不快感を隠そうともしない麗華お嬢様の声に、薫子お嬢さまの笑いが被さりました。
「何の意味ですって? お母様の決めたことをお忘れになったんですの? “なぜ”とか“どうして”という言葉は、このお屋敷には存在しない言葉なのですよ?」
それは……僕が麻耶さんから言いつけられた言葉と寸分違わぬものでした。
かとるである僕ならいざ知らず、お嬢様たちまで同じ言い付けを守っているということなのでしょうか?

虐げられる者が、「どうしてこんな目に」と思うのは自然なことだ。そして、その疑問を捨てなければ虐げられ続けることは出来ないだろう。
同様に、虐げる者がもし「何故自分はこんな事をしているのだろう」あるいは「こんな事をする権利が何故あるのだろう」と疑問を持てば、関係性はやはり続かずに崩壊する。
振り返れば“お屋敷”で人間だったのは、志乃ひとりだけだった。だから彼女を“たろ”はひとりぼっちだと感じ、そこにかつての自分を見て、共に手をとった。
「だけどどうして私は、私は不幸なの!」と叫ぶ志乃に、“たろ”は思う。
ああ、それを叫べるだけで、あなたは幸せなのに……。と。
人間である幸せ。それはおそらく“人間である”という事実そのものの幸せ。そしてそれだけの…。
滞在者の記憶を探って望むものを蘇らせる『惑星ソラリス』で、クリスとスナウトがした会話を思い出す。

「自分と向こうの生活との関連を感じるか」
「妙なことを聞くね。人生の意義も聞きたいか」
「真面目に答えてくれ」
「くだらん質問だ。人間、幸せな時は、哲学的な問題に興味を示さないものだよ。そんなことは死に際に考えるのさ」
「死がいつ来るかわからんから聞くんだ」
「急ぐことはない。そんな問題に興味を持たない人間が最も幸せな人間だよ」
「知識は不安を招くね。人間には秘密が必要なのかな。幸福の秘密。死の秘密。愛の秘密」
「それはあまり考えない方がいい。自分の死ぬ日を知ろうとするようなものだ。その日さえ知らなければ不死と同じさ」

分からないこと、分かろうとしないことは無いことと同じ。
繰り返す二十日間のうちで、毎ループ発生するイベントがある。お屋敷の皆で、“たろ”の誕生日を祝ってくれるのである。
しかし記憶のない“たろ”は、自分の誕生日など覚えているわけもなく、突然祝われても戸惑ってしまう。
それでも最後には納得して、“たろ”は“今日が自分の誕生日”であることを受け入れる。

そうでした。今日が、僕の誕生日です。
名前だって奥様が付けてくださったんですから。
若作りの人も、ふけている人もいるのに、年齢ってあります。だから、あれは意味がないんです。
年齢なんていうものは、名前と一緒で、人をグループ分けして、個人を特定するための記号にすぎません。
だったら、僕が僕であることは、奥様たち、お屋敷のみなさんが分かってくれているのです。特定してくれているのです。
お屋敷の皆さんが特定してくださるなら、僕は他のどこにもいかないのですから、それでいいのです。
ああ、つまりはそういうことなんだ…。

嬉しそうにお祝いしてくれる四人のお嬢様。彼女たちも客観を知り得ない素直な主観という名の駒であるから、誰しもがいつも、初めての“たろ”の誕生日を喜んでいる。奥様はただ、静かに穏やかな眼差しで見つめている。
幸せで穏やかな空間に、“たろ”は「誕生日って、いいものだな」と思う。何度ループしても。
従う方が、環境に適応する方が“幸福”になれると学習した時、行動パターンはそちら側へシフトしていく。環境によって人格が規定されていく。
何度もやり直す内に、彼は置かれた環境を、与えられたものを、心から幸福だと思える思考回路を自ずから獲得して身につけていくのだ。

その晩は、うれしさで泣きながら眠りました……。このお屋敷は、僕のための居場所。このお屋敷のかとるが、僕の位置。だれもが僕の存在を望んでくれる。それは、ある意味、僕がここの、この屋敷の、この世界の主人(あるじ)であるということ……。だから、嬉しくて泣くのです……。

承認欲求は人間の本能。碇シンジの「ここにいていいの?」という問いは、TV版では彼の主観という閉鎖された世界の中に存在する他者、全員からの祝福を“仮想”して自己救済を得た。そしてEOEでは、絶対領域であるはずの主観の中に存在する人類の“他者”たるレイに、同じ問いを投げかけ、返ってきた「(無言)」にシンジは発狂する。
幸福を諦めて孤立を受け入れるという結論を出したEOE。対してこの夢幻廻廊における幸福は、存在価値、存在理由、存在証明を全て他者に完全に紐づけ、共依存させ合うことで“幸福”と“永遠”を仮想する。

ところでレビューを見ていると、『環』になるお嬢様が『裕美子』でもあり得るし『奈菜香』でもあり得ると捉えているものを複数見かけた。
麻耶の「お嬢様のうち一人を同じ人格に」という台詞を「誰か一人」と解釈して、“たろ”の行動による分岐によって四人のうち誰かが次の『環』になる…という仕組みだと捉えたのだと思われるが、それだと「この世界で、繰り返されないのはただひとり、“たろ”、お前だけ」という奥様の台詞と矛盾する。“たろ”意外の駒は皆同じ行動を何度も繰り返すのだ。
つまり私は三女である『裕美子』しか『環』にはならないと解釈した。
おそらくそこを混乱させるのは奈菜香ルートの描写だろう。
整理して考えるのには、まずNPCのように同じ行動パターンを繰り返すお嬢様に対し、何度も微妙に違うループを繰り返して、しかも途中何度か死んでいる(環も「最初の“たろ”であるはずもないのだし……」と言っている)“たろ”がスペアと入れ替わりつつもその経験値を着実に蓄積していく、その累積システムが重要である。
『自分の前にも、おそらく後にも“たろ”がある』という事実を聞かされた後のタイミングに、下記のようなシーンがある。

でも……でもそうだとして……僕が忘れても、“たろ”のことを覚えている誰かって、だとしたら、誰なんでしょう……
誰が、僕の忘れている、“たろ”のことを覚えて……
「決まってる……」
誰が……
「覚えているじゃないか」
……………………。
…………。
……。
「君だよ」

グモルクが“私”に話しかけてきている場面でそのシークエンスは唐突に終わる。
つまりゲーム外のプレイヤーたる“私”は、毎回まっさらな主観でループを繰り返す“たろ”の外部記憶装置である。彼がすべてを忘れる代わりに、このゲームを起動させている“私”が代わりにその経験を覚えている。
だから黒の日の奈菜香ルートの最後、泣いている奈菜香はあのループの奈菜香だし、土の下に埋まっているのはあのループの“たろ”だ。奈菜香のものになったあの周回では、“たろ”は必ず一度死ぬのである。
そしてお嬢様たちもリセットされ、新しい“たろ”が補充され、奈菜香のものになって死んだあのループの経験を加算した上でまた新たなループが始まる。
何のためにそのループが必要だったのか?
それはグモルクが回想したように、彼が“グモルク”として永遠を維持する側に回る覚悟を決めるよう“調教”されるためである。
何度でも死ぬ“たろ”に対して、おそらくグモルクが死ぬのは奥様の交代の時だけだ。グモルクとして存在している時点で、彼は“全てを経験したたろ”だと考えていい。(志乃ルートは例外)
だから裕美子さまへの恭順も勿論真実として、それはそれとして、全てのルートの中で彼が永遠という装置に甘んじる引き金になったのは、奈菜香との思い出だったということである。このロリペドの虫野郎!(by麗華)
麗華さまは真っ当なお嬢様なので、色んな意味でいいのかそれで!?という葛藤から“たろ”をボコボコにした。そして詳しい因果は分からないまでもたろ≒グモルクだという事には何となく勘付いているので「わたしがなにか言うものでもないのだろうな、忠犬」と難しい胸の内を述べたわけである。
また、各お嬢様のルートが終わった時、「長女、クリア」等の環とグモルクの会話が発生しないのは赤の日でも黒の日でも、裕美子の時だけだ。自分のことだから“知っている”ためだろう。
奈菜香黒ルートのクリア時に「ノワール・フルポイント」だったのは、これで“永遠”が保たれる条件が揃ったという意味の言葉だと思う。
そして色んな意味で、

「よろしいのですか」
「なにが?」
「……いえ……」

という会話になるわけだ。基本的にこのゲームには与える愛しかなく、独占とか誰かを選ぶとかそういう普通の恋愛ゲー的な価値観は捨て去らなければならない。
それにグモルクはあくまで共犯者のような関係で、環のものではないからこそ“環”には“たろ”が必要になるのだろう。

あと分かりにくくしているのは最後の夜、奈菜香が「まるで奥様のようだった」というくだりだろうか。
あれは、奈菜香が本当は“奥様になれる素質”がある人格なのに、四女という役割は幼い子供でなければならないがために、奥様にはなれない…という悲しみを描写したシーンだと解釈した。
更に考えるともっと悲しい事実に気付く。
長女は赤の日で死ぬし、次女は赤の日で真っ当に働いているその後が見えるし、三女は環と交代するし、たろは短命だし、ループからの“外れ方”がある。しかし奈菜香は赤の日でも、黒の日でも“たろ”と共に出て行くことはない。
加えて、病状の悪い薫子を見送った際の、下記の会話。

「……良くないようだな」
コーヒーの湯気を顔に当てながら、最初に口を開いたのは麗華お嬢様でした。
「いつものことじゃん」
「でも、あんなにひどいことなんて、珍しいわ」
「……そろそろ、考えないといけないのかもしれないわね」
奥様の言葉に、びくっ、と奈菜香さまが体を震わせました。
「あ、あのねあのね、お母さま。奈菜香ね、今年の身体測定でも全然背が伸びてないんだぁ。残念だなあ」
「まあ、そうなの?」
「それでね、奈菜香ぁ……」
カタン
奈菜香お嬢様の言葉をさえぎるように、麗華お嬢様が食後のコーヒーを飲みきると、カップをソーサーへ、少し手荒にお戻しになりました。
「ごちそうさま。私は課題があるので、これで失礼する」
声にも、どこか嫌悪感に似た苛立たしさが、にじんでいました。
奈菜香さまは何かを言いかけ、奥様が頷いたのを見て言葉を飲み込みました。

四女は子供であることが役割の条件で、お屋敷から自主的に出て行くことが無いのなら、もし成長してしまった時はどうループから外れるのか?
“たろ”を逃がす時に言った、「殺されるって言ってるのにーっ」という言葉を嫌な方向に解釈できなくもない。
奈菜香の部屋だけ現代風なことを、「当たり前じゃん」と言った理由が、「いつか外に出されるため」と解釈できればまだ希望はあるが…。

とにかく、繰り返すループの中で“たろ”は一度奈菜香の忠犬を貫いて死んだ。
“天国”のたろが全てのたろの記憶を外付けHDDの私から読み込んで所有していたように、グモルクもプレイヤー側に回った段階で、いつかすべてのお嬢様たちとの記憶を取り戻す時があったんだと思う。その上で、お屋敷の永遠を肯定する契機になった「永遠を願った瞬間」が、奈菜香さまと安らかに眠るあのひとときだったと思うと…愛だなって…。
グモルクさんがちっともそんな素振りを見せないのが尚更。見せるのは一度だけ、振り返れば象徴的な、裕美子さまと奈菜香さまの二人で“たろ”に会いに来た日の直後。

「三女、黒、自由1――
四女、黒、加点1――」
「…………」
「…………バーカ」
「なんだよ……バカって……」
「あんなガキを……自分をあんな目に合わしたヤツをちょっと泣いて『好き』って言われただけで『ボクも好きです』なんて言うヤツを――バカって言わずに、なんて言うんだよ……」
仮面の奥から、きひひひ、と気味の悪い笑い声が聞こえました。
「でも、バカなのは、オマエが悪いんじゃない。バカになるように躾けられちまってるんだ……」
「躾け……?」
グモルクは、いい意味でその言葉を言ってるんじゃないということだけは、その口調から、わかりました。
馬鹿にしたような口調。
それも、僕を馬鹿にしてるんじゃなく、別の何かを笑ってるみたいな……。

絆されちゃったんだな~という感じ。ここのグモルク→奈菜香の関係性だけはハードボイルドな匂いを感じなくもない。
そして本人は環のゲームの相手になりつつ、犬として裕美子を逆調教し、ネバーランドでしか生きられないティンカーベルのためにそこを守っていくと。
まあペットにとって全員ご主人さまはご主人さまだけど、家族はそれぞれ可愛がり方も距離感も違うものだからな。

寂しくて、誰かと一緒にいたいのに、その誰かと、どうしても仲良くできないのです。
そんなところは、そっくりです。顔は似ていなくても、心がそっくり。
ああ、家族って、そういうものなのでしょう。

「……そうですね。神は、あまりに人間を、自分に似せてしまいすぎました。だから人間は、神様の孤独を癒しては、くれないのでしょうね。同じように過つほどに、似すぎてしまっているから。妾のように……」
「僕は違います」

人類皆家族。実際していることをゲーム内の中だけで完結させて考えればこんな虚しいゲームは無いが、私は全てのループを越えて“奥様”を癒すペットとして寄り添った『天国』のラストに素直に感動した。
寓話的に考えれば、“お屋敷”はこの世界の鏡像だ。誰もが役割を演じなければ円滑なコミュニケーションができない。役割を捨てて個としてのコミュニケーションを図れば、永遠ではなくなる。そして役割ではない“自分”など、本当は誰の前にも現れ得ない。
この世界とお屋敷の違いは“環”という人格の有無だ。『環境』について語った際に、己の名前の一文字だと“彼女”は言った。
時間がループしていると初めて知った時、“たろ”は「だれがさせているの? やっぱり神様のしわざなの?」とグモルクに尋ね、グモルクは「いいや、環さ。あの女がやってる」と答える。“たろ”はそれを聞いて、『なあんだ、じゃあ神様がしてるのと同じことじゃないか……。』と考えた。
現実でも、“環境”に人格を想定した概念こそが“神様”と呼ばれるものではないか?
“奥様”の言葉を、そのまま“神様”の言葉と考えて彼女の言葉を見ればそれが分かる。

「このお屋敷では、あなたの理解できないことがこれから、たびたび起こるかもしれないわ……だけど、そんなときは、一人で苦しむことは、ないの……お屋敷の作る永遠は、時に残酷に見えることもあるでしょう。でもね、“たろ”……このお屋敷にあるものは、あなたを傷つけたとしても、必ず最後には、幸せをくれるものなの。幸せのほかに、このお屋敷には、なにもないのだから」
「はい……」
奥様の言い回しはとても難しくて、意味は半分くらいしか分かりませんでした。つまり『いろいろつらいことはあるけれど、ガマンすれば必ず幸せになれるんだ』って、そういう意味だと、僕は思いました。
たぶん、そういうことだと思います……。
「痛みも悲しみも、死の辛さすらも……。全てに、幸せは宿るもの。“たろ”は、妾を信じるかえ?」
「もちろんでございます。奥様」
それは、今日奥様の下さったお言葉の中で、一番簡単な問いかけでした。
「ならば、なにも疑うことはないわ。あなたは、幸せになれる……」
「はい、奥様……」
「でも……」
奥様は、うなずいた僕の頭を撫でながら、けだるそうに遠くを眺めました。
「でも、そうね」
そっ、と奥様の手が僕の頬を撫でます。
「妾は果たして、妾を信じられるのかしら?」
「……奥様?」

敬虔な信者は神の愛を信じ、そしてこの世の全ての苦難を恩寵に変える。『苦難に耐えている者は幸せだ、いつか認められた時に人生の王者となるであろう』というのはliliumの歌詞だったと思う。
「痛みも、苦しみも、死でさえも。それが幸せであるならば。幸せだと、ラベリングされていれば、人は誰も拒むことはできない」とは“奥様”の言である。
そして奥様は「勝負に勝つために必要なことは何か」と問いかけて、こう説く。

「どうすれば勝てるのかを、考えること」
「ルールを読むってことですか?」
「……ちょっと違うわ。相手に負けないって、ことなのよ」
「違う意味なんですか?」
「少しだけね。考えが進んでいるの。
相手が何をしてくるのか、それを考えないで、ただ自分のことだけを考えていたら、ゲームには勝てないのよ。
つまり、相手がなにをしたいのか。どうすることが良いと、相手が考えているのか。まず大切なのは、それを知ることなの」
「難しいですね」
「簡単なことよ」
奥様は、まるで夢想するみたいに、目を閉じられました。
「愛すればいい」
「愛……?」
「そう。愛。 相手がなにをして欲しがっているか。相手が何をしたがっているか。それを、常に考えること。それはつまり、愛なのよ」
「愛……」
「恋や憧れではダメ。それは、自分がどうしてほしいかを、相手というスクリーンに投げ出しているだけだわ。勝負で勝つためにはね、まずは相手を愛することなの」

永劫回帰の概念でニーチェは、もし全く同じことを何度も繰り返すのだとしても、それでもその生を肯定できる人間のことを『超人』と定義した。
人あらざる者、という意味では下方に行こうと同じことだろう。
相手が何を必要としているのか。それを常に考えるということは、自分を自分だけのものにしないということだ。
人間は、我欲を捨てることがとても難しい。自分が自分のものであることを捨て去ることは。
「このお屋敷には、妾にはお前が必要なの」と言う奥様に“たろ”は「はい、奥様」と答える。
「お前は、妾が必要?」と言う奥様に、“たろ”は「はい、奥様」と答える。そして奥様は、「なら、よろしい」と言う。
こんな簡単なコミュニケーションだけで幸せになれるのに、そこに辿り着くのは、そこに居続けるのは、とてもとても困難なことなのだ。
つまりそれは愛し続けるということだ。そして愛され続けること。
ゲームのラスト、光降り注ぐ庭で、ふざけてお嬢様たちから追いかけられた“たろ”はお庭の中心で紅茶を嗜んでいた“奥様”の傍に逃げ込み庇ってもらう。
ありがとうございます奥様、と礼を言う“たろ”の頭を撫で、「気にしないでいいのよ」と笑った“奥様”がこう言って、ゲームは終わる。
「あなたは、このお屋敷にとってなくてはならない存在なのだから」

神様が「あなたは、この世界になくてはならない存在だ」と言ってくれることを、祝福と呼ばずしてなんと呼ぶだろう。
現実という個の世界では自分の存在価値を自分で決めなければならない。主観は環境に無限に操作される、しかしそこに神が姿をとって現れることは無いからである。なぜこの居場所がこうであるのか、どうして私は私なのか、言葉では誰も理由など語り得ない。個はその集合を語り得ず、語りえぬことに関しては沈黙せねばならないのだ。
しかし、夢を見ることはできる。グモルクは言う、「幸福も絶望も、全ては主観の中にしか存在しえない」と。人は主観から出られない。それは人と人を隔てる壁にもなる。だが閉じているからこそ、全てを変えることも出来るだろう。人の認識できるものはとても少なく、見える世界はとても狭くてささやかなものなのだから。

奥様の傍に侍って、彼女を孤独でなくした結末に、私は「いいことしたなあ」という気持ちになった。“たろ”の存在が、それを育てたことが、環という存在を幸せにしている。それは“たろ”自身が幸せになったかどうかという事よりも余程重要で、確かなことだと思った。そう思えることそのものが、既に彼にとっては幸福なのだ。

天国

ああああ疲れたァァァん! ちゃんと整理されてるかわからんけどいいわこれで。引用だらけで申し訳ない。どういう順番で開示すれば一番わかりやすいんだ…!?って超頭使ったわ。ちょっとは情報整理能力が向上しただろうか。グラスノスチ!(言いたいだけ)
もう小難しい話は済んだのでここからはお屋敷の皆さんそれぞれについての感想です。

薫子さま&麻耶

お嬢さまたちの中で本当のサディストは薫子さまだけだったな。相手を人間だと理解した上でやりすぎなほどやりすぎる薫子さま、わたし大好きになってしまいました。
いやくつしたは関係ないんだ。関係ないって言ってるだろ!
なんていうか狡猾さのある悪人とは真逆の人なんですよ。ただただ純粋に邪悪であるというだけで。麻耶さんへの容赦ない「ばーか! ばーか!」とか最高だったな。この世の鬼畜と名のつく攻めには全員お手本にしてほしいサドっぷりだった。
たろが色々な目に遭うのは、そういう“お役目”なんで「大変だな〜」という感じなんですけど、メイドたちへのおしおきは偶発的なだけに“いじめ”って感じで生々しいんですよね。勿論機能的にメイドの方が同じ女として想像しやすいっていうのもありますが。
だから第三者にオススメできないなっていうのは“たろ”への仕打ちよりも、メイドへの仕打ちの部分でそう思いました。
私がひどすぎワロタっつって色んな描写を全部笑って消化出来てしまえたのは、実際こういう扱いをされてしまう事案が世の中にはあるって事を陰惨な事件記録とかで知った上で、これはあくまでフィクションだっていう安心感があったからこそかもしれません。嫌いな食べ物も一度食って味を覚えておくとその内食べられるようになるらしいですが、第三者として飲み込んだことがあるからこそすんなり飲み込めただけで、人によっては吐き気を催したりしてしまうかもしれない。ところで『ブラッドハーレーの馬車』という鬼畜作品があるんですが、私がその漫画で一番面白かったのは作品自体よりもamazonレビューで星1つをつけたレビューの中にある精神的ショックを受けた人たちの感想を読むことです(ド畜生)
まあそれは置いといて、「そこまでする?」という鬼畜の所業が全く緩まない調教ぶりに次第に「パネェ」という気持ちが湧き、『むしとり』って何だろう…→ちょwwwアンタそんな事までさせとったんかwww等の感心を経て、やがて「さすが薫子さまッ! 俺たちに出来ないことをやってのけるッ! そこにシビれる憧れるゥ!」という尊敬の気持ちが生まれてくるんですよ。
一番好きなシーンは、嫌がる志乃を仕置きとして"かとる"に堕として"たろ"に犯させる鬼畜ショーを、ソファーに寛いでブランデーグラスを揺らしながら眺めて「ふぅ〜」って悦ってたシーンです。カリスマや! 器が違いますわ!
それでいて言い訳しないというか、過去に刺されたことも全然怒っていないどころか当然だと許すし、基本はとても穏やかな、心の大きなお方で…。墓前で涙にくれる奈菜香さまに知らず追い打ちをかけてしまう裕美子に対し、「そっとしておきましょう」と悲し気に気遣えるその静かな優しさ。ああ薫子さま。でも何回交代しても毎回やり過ぎて刺されてるんだと思うとめっちゃ面白いな。ペットに刺されるのは飼い主の甲斐性的な?
役割交代エンドも、とんでもない目に遭って弱々しい「“たろ”さん……」という声を上げつつも、やめてくださいとか助けてとか、そういう慈悲を乞う発言は全く無かったところが好印象でした。そんなだから結末もなんか「楽しそうだな」って思っちゃった。
ところであの黒の日の最後、“薫子”でなくなった彼女を“少女”と形容した記述に「ん?」と思ったんですが、黒の日で「マイナス2機」ということは赤の日の薫子さまは既にお亡くなりになっていて、黒の日の薫子さまは補充された二代目薫子さまだったんですよね。だから“長女”としての役割だったからこそ年上のお姉さんに見えていただけで、実年齢は“たろ”とそう変わらないか年下だった可能性すらある。寝顔もいつも“あどけない”お方だし。こぐにっしょん(認識)が牛耳られたお屋敷ですから。うーんそれはそれでアリだな。まあ役割で重要なのは肉体ではなく人格なので、些細なことなんですけどね。
色々と突き抜けてるし、堂々としてるし、精神的には一番強そうだ。麻耶さんが惚れちゃうのも分かるわー。麻耶さんすぐ刺すからな。(前科二犯)お屋敷で一番メンヘラなのは実は麻耶さんなんだと思う。まあ境遇のハードさを考えれば仕方がないのですが…。
ループ中に“たろ”の入れ替わりがあることを把握しているはずなのに、そこはリセットされてしまうというか、それこそ麻耶さん自身の“こぐにっしょん”が実はずっとダウンしたままだったということなんでしょう。最初の麻耶がそういう経緯を辿った人だったのかな。そして魂に刻まれたその罪悪感ごと、役割としてダビングされてしまう…。損な役割ですわ。
でも麻耶さんが薫子さまにお仕置きされてるシーンを思い出すと、胸が痛むのかドキドキしてるのか判別がつかなくなる。マジ泣きの声の演技が最高でした。麻耶さんもホントに好き。困った顔が可愛かった。
声といえば、ゲームについてるサントラの中に他ゲームの主題歌であるはずの薫子さま役の人が歌う曲が入っているのは、薫子さまに心酔してしまった家畜向けへの製作陣よりのお慈悲だと思いました。かおるこさまだいすき! かおるこさまありがとうございます!

麗華&奈菜香

人間力に定評のある麗華兄貴』という下馬評はまことであった。麗華さまステキすぎる…。黒の日は悲しそうな表情が多くてこちらも悲しかったですが、同時に萌えました。百合子のくだりは“たろ”のやばすぎるドン引き進化で笑ってしまった。(笑ってはいけない)
赤の日で「マイナス一機」と言っていたので、赤の日の麗華さまは今頃真っ当に灰色の社会で生きておられることでしょう。だから黒の日の麗華さまが“いっぷ”に葛藤していたのは、グモルクが言ってた「お前が麻耶にいきなりなって、最初はうまくできなくても皆『ああ最初は麻耶でも無理なんだ』と思う。でも同じ仕事を押し付けられていくうちに自然と出来るようになっていく」の慣れ始めの段階だったということなんでしょうね。(勿論本人に自覚は無いだろうけど)
赤の日は兄貴系攻め、黒の日は強気系受けという感じで一粒で二度おいしい萌えキャラでした。
“たろ”(≒グモルク)以外に視点者になる場面があるのは麗華さまだけです。逃げ出す時に、驚いた麻耶の珍しい表情を見て「最後に面白いものが見られた。」って述懐するシーンが好き。麗華さまカッケェ…。
奈菜香ルートで、奈菜香と麻耶は麗華が“たろ”を気に入っているから怒るのだと言い、“たろ”は麗華が奈菜香を好きだから怒るのだと言うシーンがありましたが、どっちでもあるのだと思います。奈菜香は大事な妹だし、食事中からかう様子なんかを見てると内心ほんとに可愛く思ってるのでしょう。そして“たろ”を気に入ってるのも本当。
で、命令されたからってその年の女に手出すとかこの変態ロリペド豚めという罵倒も本心だし、鞭を振るう相手がいなけりゃ調教専門かとるの己の自我をどうすればいいんだという無意識の苦悩もあるし、その上でよりによって奈菜香かよとか、もうお屋敷を出て行く気を完全に失くしてしまったのかとか、とにかく「いいのかそれで!?」という諸々の葛藤を引き受ける役割を担っていから、麗華さまはもう一人の主人公、というような印象でした。
そして上の方で結構奈菜香さまについては書いてしまいましたが、実はある意味メインヒロイン的な。
でも正直わかるわー。性的なことを抜きにして、まっすぐ慕ってもらえて、まっすぐ慕う気持ちを受け入れてもらえたのは“たろ”にとって本当に幸せだったんだろうなと思う。「うれしいなあ。奈菜香、うれしいなあ」って台詞が一番好きです。こんな風に自分の好意を喜ばれちゃったらもうね。奈菜香さまのものになりますってなっても仕方がないかな。
“たろ”がすぐ勃起してしまうのは薬の効果や洗脳の効果が多大にあるので本当はシャレにならないというか、哀れむべき体質なんですが、言いたくても言えない好きだという気持ちが体の状態で通じることが叶った場面では「ああ、こういう場合のためなんだなあ」と何だか感動してしまった。(感心?)
永遠に“奈菜香”の前に“たろ”は現れて、そして何度も繰り返す中の何回かは彼女に一生を捧げる忠犬になれることを、そのループが訪れることを、彼は永遠に望み続けているのだろうか。奈菜香のループの外れ方も前述の通り不穏だしな。うーん儚い。永遠なのにね。

裕美子&志乃

裕美子さまはギャグキャラだと思う。
いや赤の日はまだ調教途中だったから、ただの天使でおられましたけど(それでも炎天下の散歩と生ゴミ飯はかました模様)
一番笑ったのは最終段階に辿り着いて、完璧な“かとる”になった“たろ”が「本当にこの人は、僕のごはんに涎を入れるのが好きなんです。」って言ってたところ。やっぱお前の趣味なんじゃん!!“かとる”のスタンダードじゃないんじゃん!!!って超笑った。裕美子さまは変態。
でも赤の日から突然フルスロットルで炎天下の全裸散歩を繰り出してきたのは、主人公がいつも出くわすグモルクとの散歩で着実に“裕美子”として育成された結果だからな…。そしてグモルクは元たろなわけだから、何と言うかオーライだね。
しかし基本的に悪気がない善意の塊だからこそ、調教部屋での「“たろ”と志乃をセックスさせろ」→「たろが可哀想……」という思わずの反応のクソさに謎の興奮を覚えてしまった。キミ志乃はちゃんと人間に見えてんだよね!? 風呂場で「あれは牛です」とか言ってたしなんか妙に志乃に厳しいな彼女は。
調教部屋での悪夢の後日だというのに『“たろ”とは仲良しですものね』とか言ったらしい裕美子さまに「ふざけんな! あんなことされて仲良くなるわけないでしょ! 澄ました顔であのブタ女!」って“たろ”に憤る志乃さんの場面すごい笑った。善意100%の発言と分かるだけにシュールすぎる。ブタ女ですわ…(春の陽射しがそこに凝固し少女の形になったかのような高貴でお優しい裕美子さま)
そういえば裕美子は薫子さまの離れに“たろ”が近づくのを「とられたくない」と嫌がってもいたが、奥様の薫子さまへの仕打ちがエグかったのとやはり関係あるのだろうか。
赤の日で「そう、今も覚えている……」と“たろ”の耳元で裕美子の行動を予言し、志乃の登場に爆笑していた奥様はここ一番の狂気を孕んだご様子で描かれていましたが、振り返って考えてみれば当然ですよね。あの時指折り数えていたのはおそらく“この”裕美子の現在の周回、調教の進み具合…そしてそれを数えるということはつまり「あとどれくらいで“環”が入れ替わるのか」を数えることであるわけで、個体としての自分の死ぬまでの時間を指折り数えることと同義なわけですから、そりゃあ正気では無理な勘定ですわ。
しかしグモルクとのゲームでいつも言ってる「裕美子さんで稼げたポイントは予想外だったわ」って、それは「あんなことしたっけ?(すっとぼけ)」って意味なの? それとも「あれってそんなにキツかったのかしら?(すっとぼけ)」って意味なの? お茶目か?
そして志乃さん。よく考えて見ると、前回の記事書いた時っていうのは赤の日裕美子さまルートを終えた直後のことだったんです。何故そこでちょっとダレたのかを自己分析すると、赤三週目でだいぶ既出のやりとりが増えてきたのと、何よりそのルートでの志乃さんが初めて“理由のない暴力を与えてくる人”として登場したからだったんだなと。
私はわりと辛い話とかバッドエンドとか好きな性質なんですが、ただ胸糞話は地雷なんですよね。ここのラインが微妙なところなのでなりふり構わず見る訳ではないんですが。
なんというか辛い状況があったとして、そこに至る過程に理不尽さがあると胸糞なんですよ。色んなどうしようもない因果とか、宿業とか、そういうのが重なり合って陥るどん底の状況はアア~って一緒に落ち込むことが出来るんですが、外部から明確な“悪人”が出てきて、しかもそいつが大した因縁もなく、ただ人を不幸にさせるだけさせて罰という罰も受けずに退場する、みたいなのは「ア゛ァアア!!?」って怒りが沸くので駄目です。
ダンサーインザダークとかあらすじ聞いただけで「え、金盗んだ奴が死ねば良くね?」とキレるし隣の家の少女とか「え、その家族が全員死ねば良くね?」とキレるので絶対読みたくないです。悲しみたいんであって怒りたくはないんですよ(注文の多い下衆)
で、“いっぷする役割”と“いっぷされる役割”という大義名分のもとやってきた所に、なんか明らかに精神が不安定な志乃さんが役割の外から虐げてきたので、えぇ…こういうパターンもあるの…こえーよこの人…これからこういうのも増えていくのかな…何度やってもお屋敷戻っちゃうし…ハァ…みたいな気持ちになってモチベーションがちょっと下がっていたわけです。
でも黒の日行ったら、「そりゃ怒るわ」と納得の仕打ちを志乃さんが受けまくり、“たろ”が怒られるだけのことをしているのに自覚がないという逆転現象が起こって、伏せられて理不尽だった部分がどんどんクリアになっていった。というより、長々書いた通り全部システマチックに理由が用意されていて、むしろこのゲームは“どうしてこんな目に”という視点を失くすことが最重要目標みたいな話だったのでした。
繰り返しになりますが攻め手側も“どうして”と問うてはいけない、というのは重要なルールだなと。胸糞になる悪人へのキレ方っていうのは大概「どうしてテメェにそんな権利があんだよ!!?」というようなものですからね。
志乃さんも最終的に大好きになりました。ていうかかわいそすぎる…幸せにしてあげたいキャラNo.1だよ…。でも、同情しないで!と必死に尊厳を保とうとする、その崩れ落ちる寸前のガラスのようなプライドが志乃さんの美点でもある。
「私中学までは成績良かったんです!」って何度も言うところとか、なんかすごいリアルにやるせなかった。“志乃”のポジションつらすぎだよな。でも抜け出せないんだよな。
『そう。志乃さんは悪くないのです。でも、悪くないだけでは、だれも守ってくれない。』という現実世界の灰色さが胸につきささる。
せめてお屋敷の安寧が、たろの言う通り彼女の幸福になってしまったのならまだ…。あるいは、“たろ”が完璧なかとるになったことが、志乃にとっても安息をもたらすものだったなら少しは良いんですが。

奥様&たろ

というわけで全員好きですけど私はやっぱり奥様推しです。お屋敷から出ない限り奥様とは神様。奥様のお言葉は神様のお言葉である!

「ゲームはね、その過程が楽しいの。勝敗のみを楽しんでしまったら、それは仕事だわ。
調教の過程。試行錯誤の過程。それが、楽しいの。全てが思い通りにいってしまったら、それは、ゲームではなくて、暇つぶし……だから妾は、驚きが欲しいの。分かる?」

「予定通りではない何かを。Sにとって、Mはただ従順なだけではつまらないの。ゲームは、クリアしてしまうのが一番寂しいでしょ? とくにこのお屋敷は永遠だから……永遠に続く、驚きを、“たろ”……妾に頂戴な」

「歯向かって。“たろ”。やってはいけないということをして。そうしたら……そうしたら、妾はこのお屋敷にある全ての装置を使って、あなたを責めるから」
「それが、妾とお前の絆。さあ。いけないことをして……」

あああああ奥様ぁぁん!!
お屋敷とは、そしてその“環”境を支配する奥様とは“世界”と“神様”の暗喩。そう考えて読むと、ああ確かに痛みも悲しみも、死の辛さすらも、全てに神様の愛が宿るもの。
そんな風にラベリングして、それを本当に信じ込むことが出来れば、この世は楽園になるのかもしれません。
『死ななきゃ辿りつけない天国なんて、この世じゃなんの価値もない。ねえ君は、君は、何を望むの?』
ゲームの最後に表示される、“そっち側”に行ってしまった“たろ”と“グモルク”からの無音のメッセージ。
ああしかし人はどうしてと問うことをやめられない。しかし何にでも幸せが宿るのならば、その苦悩もまた幸せなのだろうか。人間ということの。
つまり人間が、神に、愛されているのならば。でもそれは…。

OPの『トキのかたりべ』は名曲です。歌っているのは“奥様”の声を演じた人。
最後にその歌詞を引用して終わりたいと思います。

Turn Out 高い場所なら孤独に気付く Turn Up はるか遠くに語らう声を聞いた
雲の切れ間のぞき込む 人に、愛に、夢に巡り逢える
真白なカンバス見下ろした 人たちは嘘を見せ合いながら立ち尽くしていた
絶えまなく続く哀しみのうねり見つめたままで 
時のしずく落ちかけて 人も、愛も、夢も操られる
つたない言葉を響かせて 人たちはうそもつけないほどに疲れ果てていた
くずれゆく君よ…永遠にみえた名もなき君よ…
現在のかけら集めては 人を、愛を、夢を訪ね歩く

ああ…幾千の夜にうなされても ああ…生きることに囚われている

絶え間なく寄せる苦しみの波に揺られたままで
時のしずく落ちかけて 人も、愛も、夢も操られる
そして、雲の切れ間のぞきこむ 人に、愛に、夢に巡り逢うために

人は…

ううっ…(崩れ落ちる)