8番倉庫

長文置き場

金カム210話「甘い嘘」感想

“But I don’t want to go among mad people,” Alice remarked.
「でも私は気違いの所になんか行きたくない」アリスは言いました。

“Oh, you ca’n’t help that,” said the Cat: “we’re all mad here. I’m mad. You’re mad.”
「そいつは無理な相談だ」チェシャ猫は言いました。「この辺りの奴は、みんな気違いさ。俺も気違い。お前も気違いだ」

“How do you know I’m mad?” said Alice.
「どうして私が気違いなんだ?」とアリス。

“You must be,” said the Cat, “or you wouldn’t have come here.”
「でなきゃここには来ていないはずだ」とチェシャ猫。

Alice didn’t think that proved it at all: however, she went on: “And how do you know that you’re mad?”
そんなの何の証明にもなっていないとアリスは思いましたが、先を続けます。「じゃあ、お前はどうして気違いなんだ?」

“To begin with,” said the Cat, “a dog’s not mad. You grant that?”
「まず、犬は気違いじゃない。それはいいな?」とチェシャ猫。

“I suppose so,” said Alice.
「そうだと思う」とアリス。

“Well, then,” the Cat went on, “you see, a dog growls when it’s angry, and wags its tail when it’s pleased. Now I growl when I’m pleased, and wag my tail when I’m angry. Therefore I’m mad.”
「であるとして、だ。知ってるだろうが、犬は怒るとうなり、うれしいとしっぽを振るだろう。さて俺はというと、うれしいとうなり、怒るとしっぽを振るんだ。よって俺は気違いだ」

“I call it purring, not growling,” said Alice.
「それはうなってるんじゃない。のどを鳴らしてるっていうんだ」とアリスは言いました。

“Call it what you like,” said the Cat.
「お好きなように」チェシャ猫は言いました。

――ルイス・キャロル不思議の国のアリス』より

 

チェシャ猫のお土産

鶴見に惚れたきっかけの事件。そこに欺瞞があったのではないかという疑念を鯉登に抱かせる、尾形が落とした一滴の黒い染み…。
しかし「バルチョーナク(ボンボンが)」だけではまだ決定打に欠けるな、と思っていたら、なんと尾形にゃんは追加情報を残していた。

鯉登がどういう気付き方の変遷をしたのかなと考えて見ると、尾形が覆面の男の一人だったことはほぼほぼ確信していたとして、“月島もあの中に居たこと”は、鯉登が覆面の男の一人が尾形だったという疑いを口にしただけで「あれはロシア人ですよあなただって死体を見たでしょう?」と月島が淀みなく言い返してくるまでは半信半疑だったんじゃないかなとにらんでいる。
鶴見の背後で尾形と月島がロシア人の死体を運び出す光景が、鯉登の目にも入っていたのだと分かるコマ。
多分鯉登は踊り場で尾形とすれ違い、目が合った時、あの時の事後処理をしていた兵の片割れだということは気付いたのではないだろうか。だから長く見つめ合っても自然だった、相手もこちらを知っているという認識があるから。鶴見にときめいてその他の印象が残りにくい状況とはいえ、尾形は特徴的な男だし目にしたその顔を覚えている可能性は十分ある。
しかしそれだけではないような、違和感があったからこそしばらく目が離せなかったのだろう。尾形もそうして見つめ合った時に、鯉登が何か引っかかっている様子であることを見てとった。
そして当時の再現のような状況の中で呪文のように告げられた単語に、鯉登の中であの不思議な誘拐犯と、目の前で尾形がロシア語を喋ってみせた事実と、あの日死体を運ぶ尾形の顔に怪我をした形跡があったこと、自分が背後の誘拐犯に頭突きをかました記憶が、有機的に繋がった。あの誘拐犯が尾形であったとすると、誘拐事件そのものがきな臭くなること、もし狂言だったとして首謀者は鶴見であった可能性が限りなく高いこと、までは「バルチョーナク」で辿り着ける。
しかしだとしても、何のために? 動機の見当がつかない以上は荒唐無稽な話の域を出ない。
そこに絶妙な示唆を与える、尾形の残したヒント。
「今度鶴見中尉に会ったら…『満鉄』のことを聞いてみろ」
鯉登と尾形は、よくよく考えれば親が親友同士だから幼馴染でもおかしくないような関係性だ。しかし残念ながら尾形は血のつながりが“偶々”あるだけで息子扱いなんぞされてない他人だから、鯉登も基本的には平気で「山猫の子は山猫」と外部の者扱いしているが、それはそれとして生物学上の父親が幸次郎殿であることは事実なので、息子として父の友人である花沢中将をどう思っているのか、父の不当な自刃に何とも思わんのかといった疑念だけはその存在に常に紐付けて考えていたという感じっぽい。
だから『満鉄』とだけ言えば鯉登は勘付く…という予想が立てられる程度には、尾形は“自身が鯉登から花沢幸次郎の息子として意識されていること”に自覚的だった…という事実に情緒不安定になる。アアア~~~尾形どんな気持ちで~~~~?(いつもの発作)
誘拐事件の当時も音乃進少年が父上の親友の息子だっていう認識はあったのかな。あるか。「高貴な血統のお生まれだからな」な鶴見中尉ならわざわざ教えてくれそうだし。ハア~~~~目の前で“成功例”を見せられるのはつらいな~~~~

まあそれはそれとして話を戻すと、満鉄といえば花沢中将が反対していた件!→尾形といえば花沢閣下の息子!→尾形は鶴見どんが満鉄のことについて何か含むところがあると?→そういえば鶴見どんは満州にこだわっていた→ずっと尾形が父の自刃についてどう考えているのか疑問に思っていた→あの救出劇がでっちあげだったとかマジで?でもあれはやっぱり尾形だったとしか思えない→確かにそういう根回しを鶴見中尉ならやりかねない→不可解な中将殿の自刃にも鶴見中尉が関係していると言いたいのでは?
というような推理経過の中で、“尾形と一緒に死体を運んでいたもう一方の片割れ”が月島だった、という印象って鶴見と尾形の存在に比べて格段に薄いと思うんですよ。
記憶として「あの時のもう一人のやつ…月島じゃなかったっけ?」ぐらいの感じだと思うんですがどうでしょうか。そして自信がなかったとして、「あの誘拐事件の時お前居たよな?」とかこれまで月島に話題として振って確認するような事はしなかったと思うんですよね。プライド高い鯉登の性格的にも。
だからつまり、“間近で見た者としての断言”という様子バリバリで「あれはロシア人ですよあなただって死体を見たでしょう?」と即答したことは、あの事件にとても詳しいですと言ってるようなもので、月島は“ボロを出した”んじゃないかなって。
基本嘘が上手いというわけでもないのでしょう。顔に出さずに黙っておくのが一番だと知っているだけで。でもそれを差し置いても何故ボロを出したのかというと、尾形が鯉登に『満鉄』の情報を与えたこと、それによって「尾形が造反したのは父親を殺すだけでは満足出来ずに、我々を利用することで軍内での地位を手に入れ、ずっと手の届かない軍神として収まっていたかの存在に復讐したいのだ。所詮は尾形も、その父親への憎しみを、満鉄計画に邪魔だった花沢中将の排除のため鶴見中尉に利用されただけなのに…」という自己の中で築いた“愚かな尾形像”が鯉登の別視点からの追及によって損なわれたことがめちゃくちゃ地雷だったんじゃないでしょうか。
“自分は知っているが”、尾形は満鉄と花沢閣下の関係を知らないはずだったのに…と。そしてそれを鯉登に教えたということは、功名心のために動いているわけではない、何だアイツは何がしたいんだ、まさか鯉登の言うように親子で利用されたことを恨むような、そんなことはある筈はない、だってアイツは俺と同じく、
「何が不満なのか…父親を殺せてアイツも満足したはずだ」
鯉登もビックリですよ。そこまだ知らなかったから!!まさか尾形が殺したなんてそんなことまでは夢にも思ってなかったから!!鯉登ビックリしちゃうから!!

そこから堰を切った様にここではないどこかを見つめながらベラベラブツブツといつもの歯切れの良さはどうしたと言わんばかりのウニョウニョしたフキダシで恨み言ともつかぬ鶴見の手口の詳細を一人で語りまくる軍曹。怖い。怖すぎる。
死んだ目のままで一度も声を荒げたりすることなく恐ろしい事実を次から次へとぶっちゃけ、今まで何をしても何も言わずに忠実についてきた部下が「今聞いたことは全て胸にしまっておいた方が懸命です。いざとなれば鶴見中尉はあなただって平気で消す。そしてその汚れ仕事をするのは私です」=“俺がお前を殺すことになる”と宣告してくる悪夢。
呼吸、脈拍が乱れ、大量の冷や汗をかいていた鯉登は、沈黙の後…
「鶴見中尉スゴ~~~~~イ!!!!!」うわああーーーーっ!!!(悲鳴)
血管浮き出させながらその顔とそのポーズやめてよお!!ホラー合戦しないでよお!!!サーカスのせいで?サーカスのせいで二人ともそんなパフォーマーになったの?

いいこと教えてやるとばかりに重大情報を置いてった尾形にゃんもガッカリだよ…でももしかしてあれは鯉登なら気付くと見込んで伝えてったとかじゃなくて治療費払ってくれたお礼だったのかな? わりと義理堅いタイプだからな…と、最初はちょっとマジのリアクションの線で考えてました。いや今も四割くらいは思ってますけど。なんかガンソクさんの殴られて血管浮き出させながら「イイヨイイヨ!!」って悦ってる時のリアクションに似てるんだもん。ガンソクさんは素だったじゃん。鯉登もそういう性癖なのかなって…

でもキロランケの地雷でまんまとやられて部下に庇われ「おのれ…!!」と怒り心頭で一騎討ちした、あの“上に立つ者”としてのプライドの高さを思うとこんな「お前は利用される側から出られない」「俺は命じられればいつでもお前を消せる」というコケにしまくった主旨の発言を、良くも悪くも自分の付属物だと思っていた部下にかまされて「鶴見中尉スゴ~~イ!!」で済ませられるか? 「そんなに必要とされていたなんて嬉しいッ」で片付けられるか?と考えると、やっぱ演技なんじゃないかな~~と思う。
というかそうであって欲しい。ここで怒れないならそれはそこまでの男だったということですよ。いいように駒にされても鶴見が相手ならいいんか!?こんなコケにされてキレないなんて男じゃねえよ!!と私の中のバーサーカーが叫んでいる。浮き出た血管は、身の内では腸が煮えくり返っている証だといいな。
あるいはあまりの恐怖によるハイでもいいですけどね。月島怖すぎだもん。漏らしかねないレベル。
地べたで回転する鯉登を見下ろす月島はマジなのか、それとも演技なのか判別つきかねている様子。わりと鯉登の頭と人格を見くびっている(そしてそれは決して不当な評価というわけではない)ので余計にわからんという感じでしょうか。私も正直わからない。しかし尾形の助言が無駄にならないことを祈ろう。うまく立ち回れバルチョーナク!

結果オーライ

「何が不満なのか…父親を“殺せて”尾形も満足したはずだ」ですよ。何より良いことみたいに言わないでくださいよォ!!
月島にとって、彼女のことは父殺しのきっかけに過ぎなかったのでしょう。父のせいで起こされた彼女の不幸によって“はずみがついた”だけ。それよりずうっと以前から溜まりに溜めていた暗く黒く重いエネルギーが彼の内には常にあって、父を殺し何もかも失くしどうしようもなくなった身の上で、それでも「クソ親父だけは殺せたので満足です」と彼は言った。
鶴見の狡猾な手口を訥々と語るその憎らし気な口調。
「わざわざ9年越しに種明かしして…そうやって傷をほじくり返して、私を救うのにどれだけ労力を費やしたか訴えるわけです」
返報性の原理、というのが人間の心理にはあります。何かしてもらったら、それに報いなければならないと感じる心の作用。セールスなんかの界隈では基本中のきみたいな理論のようです。鶴見中尉は、とても上手くこの原理を運用していますね。
ああなんて馬鹿馬鹿しい。なんて姑息な。なんてくだらない。そうやってぶすぶすと燻るような嫌悪感を募らせ、それ以上にそんなやり方で利用されてしまった自分、逆らえない自分、まんまと転がされた自分の人生を、焦げ付くように卑下している。

誘拐犯の一人が月島だったと分かった時から、月島って思ってたよりもめちゃくちゃドライな人間だったんだなと認識を新たにしていました。彼は全てがどうでも良くて、何もかもくだらなくて、心の底では周りの人間すべてを見下しているんだなと思った。
見下しているというとまるで攻撃性があるみたいですけど、そういうニュアンスじゃなくて、例えば鶴見が網走監獄の人間を皆殺しにするつもりであることを知って本気かよと思いつつ、思うだけで全く止める理由がなかったみたいに、何もかも勝手に動く対象でしかなくて、いざという時は付き落とせない存在なんて一人もいないんだろうなというような。
鯉登がただの道化としてそこに在ることをずっと黙って横で見ている胸中。尾形が山猫と揶揄されていたことや、父に詫びる鯉登の背中に手を置いた仕草を見知りながら、その上で「中央の飼い猫め、父親へのコンプレックスを晴らすために仲間を売って利用しようとしているんだろう」という内容の言葉を投げるに至る視点。
彼は周りがおかしな行動をとる人間ばかりでも怒らず、いつも冷静で、理性的だけれど、それは心が広く寛大なのではない。期待していないだけだ。見くびっているだけだ。
でもそうやって利用されている側の人間は、自身も利用された人間だからこそ哀れめる。利用されていると知らない人間のそばに、利用されていると知っている人間として存在できる。
誰よりも近くで、誰よりも後ろ暗い汚いことまでも見知ってそこに居れば、利用されている人間の中で誰よりも優位に立てる。もう鶴見には敵わない、それだけは今後もずっと変わらない、取り返しのつかない事実なのだから、これが“最善”。
「尾形も満鉄と花沢閣下の関係まで知っていたとは。てっきり中央に鶴見中尉を差し出すつもりかと…」
江渡貝邸での罵倒は、鶴見がそういうことにして部下に説明したとかでも何でもなく、月島個人の推測に過ぎなかったんですね。
そして、月島は尾形が花沢中将自刃工作の主犯であることを知っていたと今回判明したのはでかい。
自刃が工作であると知らずに憤る鯉登や師団の者よりも、師団を騙す工作にかこつけて個人的な恨みを晴らせたと思っている尾形よりも、満鉄という具体的な理由を知っている自分は“利用する側”に誰よりも限りなく近い位置にいる人間の筈だったのに。
一体尾形が花沢幸次郎と満鉄、軍の目論見の話を知ったのは、どのタイミングなんでしょうね?
“何も知らずに利用される駒”という立ち位置から能動的に脱け出す素振りを見せる尾形の存在は、月島にとって目障りで仕方がないでしょう。
「我々を混乱させるためならあいつは何だって言いますよ」「冷静になってください鯉登少尉殿完全に尾形に操られています」このへんめちゃくちゃ機械音声みたいな口調で言ってそう。尾形尾形尾形。月島のリミッターを振りきれさせてバグらせるに十分な効力を発揮したその存在。
大したもんだよ、見事にひっかき回してるよ。今なら月島も尾形の似顔絵見せたら杉元とヴァシリと一緒にドンッてやりそう。ヴァシリんどこいった?
「何が不満なのか…」
「大変よろしいじゃないですか」
「でも途中経過で救われるんだから何の文句も無いはずだ」
「だって…何かとんでもないことを成し遂げられるのはああいう人でしょう?」
損失回避性という根本的な心理が人間にはあります。損をしたくない。損をしたと思いたくない。
「でもおかげで父親は殺せた」「でもそれで師団は安泰になる」「でもそれで道民に職が与えられる」「でもそれで戦友たちの弔いになる」「でもおかげであなた達親子は救われたじゃないですか」
変えようのない結果。でもその過程に副産物があるならばそれは利潤では?果実なのでは?
「でもまあ…別に良いんです。利用されて憤るほどの価値など元々ありませんから、私の人生には」
失うものなど何もない。ならば利益しかない。このサーカスはとてもおもしろい。来た以上は見なければ損だ。最前列でかぶりつきで。

もうね、過去の記事で、深く考えるとそれでいいんかいという事に無関心であり続ける態度はどうかと思うけど、経てきた苦労を活かしてスヴェトラーナ一家の人生を岩息ともども救った行いはとても素晴らしい善行だ、だからそのぶん報いられて欲しいと思う、とかなんとか言っていたことが最早申し訳ない。
「そうですね。何よりですね。大変結構なことでした」って全く表情を動かさずに言う月島さんの前で「うっ…はい…ごめんなさい…ううっ…軽々しいこと言って…ひい…」って泣きながら土下座したい。
怖い、怖すぎる。上で述べた誘拐事件の時に思った「ロクなもんじゃねえ!」という印象を実際は遥かにぶっちぎってヤバかったナメてた。
なんかもっと無自覚な感じだと思っていた。でもめちゃくちゃ自覚的でめちゃくちゃジットリしていた。
例えばマジでおかしいパワハラ上司に揃って説教されて、こんなにボロクソ言われて全然平気そうだな…慣れてるのかな…人種が違うんだな…と感心してたら、上司が一旦席を外したけどまだ全然近くにいるよっていうタイミングで横から「…ねよ……ズが……のか?……すぞ……」って延々ボソボソ…ボソボソ…って無表情のまま途切れずにずっとなんか言ってるのが聞こえてきてヒエッ…ヒエエエ!?って怯えるみたいなヤバさ(なんだその例えは)
もしかしてこの人すごいギリギリでは!?ギリギリな人なのでは!?みたいな。スイッチ入ったらマジで人を刺せるしそのスイッチの場所が全然読めないし入った瞬間全然わかんないみたいな。
なんか杉元と相性悪そう。実は家永とかと相性よさそう。なんかね、思ってたよりずっとジトジトしてたんですよ…
そしてそんな卑屈アンド卑屈な、虎を憎みながら虎の威の強さを信仰しているアンビバレンツな陰湿さが露わになった月島さんめちゃくちゃ魅力的だな…と好感度がうなぎのぼりしました。
やべえよある意味めちゃくちゃ強いよ。彼はいざという時に騙されない冷静さも、隠された部分を見通す慧眼も、見下しているボンボンを騙せる狡猾さも、悲しいかな能力として持っていない。鶴見に敵わない。打たれ強さと経験と屈強さしかないゴリゴリの軍人でしかない。
でも彼には人間の才能があるんだ。それは尾形には無いもので、月島の最大の長所であり美点であり能力なんだ。彼は自分では絶対そんなことしないと今は思っているけど、その気になったら、支配者を刺す。そして刺した事に適応できる人間なんじゃないか。何もかも正当化してしまえるんだ。疑問を黙殺する能力、最も人間が“生きる”のに必要なもの。
「“でも”良かったじゃないですか」と、彼はどんな地獄に落ちても口に出来るのだろう。
はんぱねえ…。突き抜けると尊敬の念が生まれてしまう。私も月島ホラー劇場を最後まで見たいですよ…席はなるべく遠い方でいいですけど…

そして二人で座卓の前に座って部屋にいる光景が、なんだか非常に違和感と距離感を感じさせる主人公お二人。大丈夫?気まずくない?
「ちがう…アイヌはどうなる?」
少しずつお互いの認識のずれを直し始めているのですね。アシリパは杉元の考えを否定しない代わりに、お互いの行動を分けて考え、どんどん線を引き始めているような印象もありますが。杉元は今後とるべき自己の態度を暗中模索中という様子。
ただ、対話が進むのは喜ばしいんですけどやっとそこか…という感じもあるな。早く『アイヌの偶像』というワードまで進んでほしい。尾形は相手と関係のない話をここではないどこかを見ながらベラベラとまくしたててた訳じゃないって早くわかってほしいんですう!実はちゃんと考えを進めていくとぶつかる問題のことを言ってたんですう!ここまでヤバい人じゃないんですう!!(泣き出す)

金カム209話「ケソラプ」感想

ええ話ですわ~~~~~(目頭を押さえて天井を向く)
リュウが飾りをつけた犬橇先頭犬の姿に憧れ、ライバル意識を燃やして樺太で頑張ってきた一連の微笑ましい描写が、初めは二瓶の銃を追いかけてパーティーに加わっただけの彼自身に初めて生まれた“自己実現の夢”として昇華されたことに目から鱗が落ちるような気持ち。ギャグじゃなかったんだ…リュウにはリュウの、一匹のストーリーがあったんだ…自分の役目を見つけたんだね…。

「自分の居場所を見つけたわけだ」という台詞を、一時力を借りるため相棒関係を組んで偵察に行き「クソ犬…」というやりとりをした白石が言うところがまた良いですね。
そして釧路での合流直後は感動した所を噛まれて「このクソ犬ッ」と殴り返し、しかし樺太での再合流では「コイツには何度も助けられてる」と庇い、遭難しかけた時は「やっぱ猟犬のリュウに橇引かせるなんざ向いてなかったんだよッ」と真っ先に見限り、しかしリュウが正しかったと分かった後は誰がなんと言おうと「俺はこいつを信じるぜ」と強固な信頼を新たにした杉元が、「リュウのやつ頭の飾りサマになってるじゃねえか」と超嬉しそうな顔で感慨深げに言うコマがとてもツボる。今にも人差し指で鼻の下を擦りそうな表情だ。まったくコイツはほんとに…劇場版ジャイアンだな(ニュアンスで定義)

杉元とアシリパの問答が話としてあそこで一旦断ち切れたのは、まあそうかなという感じ。不思議ではない。何故かというとアシリパは元々、自分だけで出した問いと答えはハッキリ口にするが、他者と考えがぶつかって同じ強さで拮抗する状況になると何も言えなくなってしまう子だったから。
インカラマッへの信用できないという主張が、嘘とは思えない涙によって揺らいだ時。お前が父親と会うことが皆の望みだと土方に諭された時。キロランケの提示する旅の行き先と目的に時折質問は投げかけても、一度も異を唱えなかった道中。尾形への信用できないという主張が、嘘とは思えない笑顔によって揺らいだ時。そんな風に今回も、何も言えずに黙り込んでしまったんだろうなあと思われる。
賢いので「今の自分では答えが言葉にできない」ということを察して沈黙することは出来るが、それが今のアシリパの限界であり、ぶつかった意見同士を折衷した新しい結論や問いを出すという段階に至るには、その尺度が形成されるだけの経験値が絶対的に足りない。それが彼女がまだ子供であるという所以。
樺太の旅は彼女に新しい世界を見せたが、それでも杉元にはまた別の世界があり、妥協点を探れるほどまだ諦めを学ぶには早く…。

一方エノノカも大好きなチカパシとのさよならがうまく出来ず、木やヘンケの影に隠れて涙が止まらない。この時代、この距離で、一度離れ離れになってしまえば、きっと二度と会えない可能性の方が高いでしょうしね。エノノカはしっかりした、世の中をある程度知っている子だろうから…。
けれど別れの悲しみにスンスンと鼻を鳴らしながら、お金だけは淀みない手つきでちゃんと数えるエノノカちゃん。ホントにしっかりした子だなぁ~~~~
別れを決断するチカパシと谷垣。決断といっても、頭でそれを選択することは出来なくて、身を乗り出してしまって橇から落ちたこと、戻る足が止まってしまったことが言葉よりも雄弁な理由になる。
この谷垣の涙も、ギャグにしか思えなかった紅子先輩との別れで号泣するゲンジロちゃんの前フリがあったからこそ“谷垣はここで涙を零すような男である”という描写に説得力が生まれるんですよね。スゲェ。ギャグでも気が抜けねえ。
きっとここの別れ方、そこに際して大きな鳥の話がモチーフになる事は、結構早い段階から決まっていたものなんだろうと思った。自然に零れる涙は美しい…。
身を立てる術として、二瓶から譲り受けた村田銃を迷わずチカパシに譲り渡す谷垣。
思えばチカパシが谷垣に接触してきたきっかけも、この銃での狩りに興味を持って覗きに来たからでした。
「でも…身体が大きくなるまでまだ使うなよ。俺はそばで支えてやれない、その銃を使うときはひとりで立つんだ」
ううっ…谷垣ニシパ…(セクシーマタギ表紙カバーをぎゅっと胸に抱きしめる)
包容力が…包容力がすごいよお…パツンパツンだよお…。

谷垣は感情で動きすぎて色々なものの取り返しをつかなくしてしまう所があって、それは本当どうかと思うけど、そのぶん人情家で、こうしてチカパシの面倒をみて教え導いてきた行いというのは間違いなくかけがえのない善行です。だから罪があったとして、そしてそれが実際許されるものであるかどうかは別にして、許されて欲しいという気持ちがある。
同じように月島も、問える立場や状況ではないと割り切った後の相対する個々の事象への問題意識の死滅ぶりはどうかと思うけど、黙って仕舞っておくことでここぞという時に発揮できるよう保持された彼自身の裁量で灯台守の家族を救ったこと、スヴェトラーナと岩息に道を示した態度は動かし難く尊いもの。
悪いことをしたけれど、良いことをしたから、皆許されてほしい。
そこを行くと尾形は、新平の命を救ったりヤマシギを皆にとってあげたり鹿を仕留めて凍死を防いだり温泉地で単独狙撃したりたくさん役に立ったけど、彼のするそれらの“良いこと”は全てその銃でもって、何かの命を奪って誰かの命を守ることでしかなかったんですよね。だからどれほど皆の助けになり、役立っても、善行と言い切ることが出来ない。
でも尾形には誰かにあげられるものなんて無いし…。谷垣が二瓶から譲られたものをチカパシに譲ったように、与えようと思ったらまず得なければならないし…。(ゲーテの名言の逆)
おいしいフリやハシャいだフリで子供を喜ばすような…笑顔で安心させてやるような器用さ、ないし…。がんばってみたけど…。チタタプとか、ヒンナとか、言ってみたけどやっぱうまくできなくて…(虚空を見上げる)
でも実際戦地で戦う人たちは、皆殺すために殺しているのではなくて、何かを守るために殺しているんじゃないですか。兵士ってそういうものじゃないですか?
役立ち方が違うだけなんだ。合わない物差しを持ち込むことは不幸しか生まない…。
こう考え出すと、いつも辿り着く結論は「鶴見のところに居たら幸せになれただろうに」ということ。
戦争の恒常化、鶴見のその目的が本気だとしたら、尾形はそこでひとつの安寧を獲得しただろう。変わる必要などなくそのままでよかった。
何故かというと今鶴見のそばに居る生きてる人間たちは、結局誰も鶴見の計画で幸せになることは出来ない人たちだと思うから。破壊を介さず誰かの役に立てる居場所、帰るところを持ったことのある人たちだから(一度持ったことがあれば、そのものは失っても持つ能力は得ている)
鯉登は父に愛されているし、二階堂には愛する故郷があり、月島には愛した女性がいた。
宇佐美はまあ、例外という感じですけど…でも今の距離感のままずーっと満足して服従し続けられるものだろうか。執着の先が目的ではなく実行者の鶴見でしかないのなら、いつかはコンフリクトを起こしそうな気がする。見てるだけで終わっていいのか、なんてね…
要するに「もっといい居場所がある」人々の中で、それが無かった尾形はそこにずっと要られる唯一の人間、翻って誰よりも役立てる居場所だったという事が言えるのではないだろうか。
でも尾形はそこから離れる事を選択したんだよな。能力はあったが心が拒んだのだろうか。
ところでこれは与太話ですが、月島の“尽忠”が感情や理由ではなく“手段”や“行動”でしかない、今だけのものである…という可能性が最近頭をよぎる。
15巻加筆、仮面を被った鶴見を見つめる表情のない顔…。彼がずっと“時機”を待っている人間である、ということもあり得なくはないのではと…(ある種の陰謀論

それにしても、これまでカワイイもの×カワイイものという単純な理屈で「尾形とリュウの絡みが見た~い♡」とか言ってたけど、チカパシとリュウが自分の居場所を見つけて立派にやっていくための晴れがましい門出を迎えた今、尾形には一刻も早く樺太から出てほしいという気持ちでいっぱい。
いや無いとは思うんだけど!!あのひと銃無いしさ!!あの村田銃は尾形の胸に一発ブチ込んだ因縁の銃だしさ!!鳥というとどうしても尾形における不穏な文脈が想起されてならないしさあ!!
まだ同じ土地にいる以上接触の可能性はゼロではないじゃん…こわいよお…もうチカパシとリュウに関してはここで“上がり”として安心したいよお…ソフィアと合流とか何でもいいから早くどっか行ってえ…(ひどい)
いやまあ綺麗にゴールした彼らに今後絡んでくることは無いだろうとは思ってますけどお。尾形のこと、既に起こした行動や言動に関してはこういうことかなあってある程度推測できるんですけど、こと今後起こす行動となると未だにまったく予測が出来ないんですよね。普通ある程度人格が掴めてきたら大体の行動パターンも読めてくると思うんですけど…尾形って理屈で感情や感覚を殺せすぎてたまに妖怪みたいな存在になるじゃないですか…杉元撃った時とか手術後立てこもった時とか…
ヴァシリとか杉元とか俺俺俺俺なキャラの予測は結構当てられるのにな。どうしてだろう(同類なんじゃない?)

金カム208話「限りなく黒に近い灰色」感想

迫害

有古かわいそす;;
アシリパは首謀者の娘だし、基本差別しない人間(というより別の要因で差別されている側の人間)としか作中で絡む機会は無く、他の登場したアイヌも皆集団で登場していたので、せいぜい“違う地域の人”くらいのコミュニケーションしか発生していなかった。
しかし和人側に一人で混じった頑健な若い成人男性のアイヌである有古、ここにきてかなり厳しい立場に追いやられる。生まれた故郷と先祖の遺志を尊んだ、ただそれだけで犯した裏切りの、これが報いか…
土方歳三とわたしの大きな違いを教えてやろう。土方歳三の北海道独立計画にはアイヌからの信頼と支持が必要だ。したがってお前の裏切りに対しては徹底的な報復が出来ない。しかし私は和人もアイヌも区別なく同胞として、平等に制裁を加える」
恐怖による支配ッ!!! “こちらに付いて得るもの”ではなく“あちらに付いて失うもの”を提示して従わせる悪魔。
その人間の一番大事な他者への情までもを利用して掌握…かつて谷垣や月島にも行ったことを思えば、確かにこれが27聯隊式の平等なのかもしれないが…(白目)
改めてフチの存在が完全に監視下に置かれていることが恐ろしいですね。目を付けられた時点で、一族郎党すべて鶴見の掌の上か…。
ていうかマジで宇佐美怖すぎだよォ! 現実に軍隊(特に昭和の)では上官や古参兵からの理不尽な暴力が珍しくなかったそうですが、宇佐美いつも絶対えげつない制裁してるでしょ…半分趣味で半殺しとかにするでしょ…宇佐美上等兵と同じ小隊になりたくなさすぎる;; ド正論の嫌味&容赦がないが手段としての範囲を逸脱しない暴力に留まる尾形上等兵のいる隊に配属されたい;;
バレると分かっていて餌にする土方、アイヌをとると分かっていて逃げられなくなるまで泳がせていた鶴見、どちらからも良いように利用されて、顔の形が変わるほどの執拗なリンチまで加えられて…鶴見勢からも土方勢からも孤立したまま一人座り込む有古の姿が、哀れで哀れで;; 口下手そうで自分の想いを雄弁に語れるタイプの青年ではなさそうなところがさらに哀れを誘う;;
こちらとは真逆の庇護欲から来るものとはいえ、人生の先輩たる“大人”として有無を言わさずアシリパの行く末を“戦わないという選択しかとれないように追い込もうとしている”ダディ杉元といい、アイヌの二人はじわじわと、その意思すらも操作対象な“囲いの中の従属物”にされようとしている。何よりエグいのはその顕在化した支配関係が“発生した”というよりは“表出した”ように思えること。導く強者、従う弱者へと何処かで分かれるのではなく、初めから実は決まっていたかのような突然さと自然さで…。
しかしやはり鶴見と土方はこの争奪戦において一際“強い”ですね。双璧ですわ。
感情でやってるわけではなく有効な手段としてやってるだけだから悪びれもしないし冷静。新平への「私たちはお前が臆病者だとは言わん」とか、偶然舞い込んだ殺した夫婦の子供を“人質”の手元に置いていったりするような度量、心の余裕を見て、つい大人物だとか情けがあるとか思わされてしまうが、それは無害な弱い相手だからこそかけてもらえている温情、お目こぼしに過ぎない。そういう相手によって器用に態度を切り替えられる奴が一番信じちゃいけない奴なんだ。意気地なしムカつくと言いながら何の益も無いのに実際助けてくれた尾形みたいな奴の方がよほど信用できるんだ(※個人の感想です)
改めて尾形の信用チャレンジってめちゃくちゃ対等だったんだよね。教えてくれないのか?(直球)からの“お前が俺に教えたほうがいい理由”のプレゼン大会だよ。穏便すぎる…
「バアちゃんに元気な顔を見せてやれ」だもんな。人質? 何ですかそれは? そんなひどいことしていいはずがないじゃないですか…!!(顔を覆う)
でも非情になり切れないからといって俺じゃ駄目かなんて、そんな風に諦めるのは…悪ければ悪いほど生き残るなんてそんな…それが事実だとしても、そんなのは間違っていると思いたいっすよ…!
大事なものをタテに利用する側とされる側に分かたれる人間たちの中で、人質になり得る存在を全部自分で消してる手遅れな尾形にゃんはやはり異端のオンリーワンなんだ。
「若者を乗せるのがお上手ですね」鶴見が尾形を乗せるには、尾形には“元々持ってるものが無さ過ぎた”のではないだろうか? まさに孤高。鶴見に立ち向かえるのはやはり尾形だけなのではッ…!!

灰色

菊田は「残念だよ…」と言いつつ、まんまと有古を罠に嵌める仲介人として鶴見中尉のお供に返り咲いたわけですが。こいつこそ二重スパイでは?という気がしなくもないんですよね。
あと偽物の存在を今回初めて知ったってことで、現在進行形で尾形とグルという線も無いと見ていいんじゃないかなと思った。グルだとしたらもう少し密に情報共有してるんじゃないだろうか?
月島が尾形を「本部の飼い猫」と罵っていたけど、本部とつながってるとしたら菊田の方がそれっぽい気がする。根拠はないけど、出世欲とかありそうだし。
有古に持たせた五枚はすべて偽物だ、あちらに渡った偽物はきっと効果を発揮する時が来ると告げる鶴見。
こちらに渡った五枚は偽物の可能性が非常に高い、早いうちに厄介な偽物をまとめておきたかったから有古を利用した、これこそが欲しかったのだと告げる土方。
え? 江渡貝くんが作ったのは六枚で? 鶴見に渡った偽物は五枚で? しかし油問屋で夏太郎が入手したやつは? と戸惑う我々。
独断と偏見で推理すると、今回鶴見が土方に渡したのは実は全部本物説を推す。
まず土方の「手に入れた刺青人皮6枚は限りなく黒に近い灰色」という発言は、本当の“色”のことではない。ホシが白だとか黒だとかグレーだとか、そういう概念上の話をしていると思う。しかし鶴見が「偽物だ」と言った後なので、一見して“土方の手元に来た偽物はよく見ると黒に近い灰色(=本物と見分けがつく)”という意味に聞こえる。
でも多分江渡貝くぅんの作った偽物は“完璧”なはずだ。アーティストである彼自身がそう言ったのだし、そうでなければ判別方法をわざわざ用意する必要がない。
つまり土方の言い回しは読者へのミスリードで、ミスリードを使うということは実は偽物ではないんじゃないかなって。“本物の偽物”はまだ鶴見の手元で温存されているのでは。
では何故偽物を渡したと言ったのか?というと、それを言った相手、つまり菊田を攪乱するためではないかなと。菊田は二重スパイで、鶴見はそれを勘付いていて、刺青の情報を探っている菊田に“偽物の在り処”を偽って伝えることで後々有利に運ぼうとしているのではないだろうか。
そう思った理由はもう一つあって、油問屋で偽物を使ったのが本当だとしたら鶴見の手元に残っているのは四枚、偽物の数の計算が合わないこと。
あの計画で“偽物を使った”ことを知っている月島と鯉登の二人は、今樺太に行って不在。つまり今ここに居る人間は「鶴見の手元に偽物が五枚ない」ことを知らない。そして今居ない人間は「鶴見が偽物を五枚渡したと言った」ことを知らない。そうして偽物がどこに何枚あるのか、鶴見以外は誰にも分からなくすることが狙いなのでは?
「自分ひとりで作ったから私はこの紙を信じられる」鶴見は自分以外の誰も信用していないのではないだろうか。
しかし鶴見にはひとつ誤算があって、おそらく鶴見は「偽物が本当は六枚作られていた」つまり「江渡貝邸に置き忘れられた六枚目」があることを知らないのでは?ということ。
そしてもう一つ気になるのは、土方は夏太郎が掴まされた油問屋の刺青を「おそらく偽物だろう」とかつて自身で言っていたのに、今回“江渡貝邸に置き去られた一枚+今回渡ってきた五枚”で計算が合う、という発言をしたこと。
勿論「油問屋の一枚を忘れている」という残念な考え方も出来なくも無いが、今回久々に出てきた夏太郎の存在が私には少し怪しく思える。
夏太郎が持ってきた油問屋の皮はおそらく偽物だろう、と言った土方の言葉を、夏太郎自身は聞いていないのだ。だから少なくとも夏太郎にとって、今回土方が言った「江渡貝邸にあった皮一枚+今回の五枚で偽物六枚」という言葉に違和感を抱く要素は無い。自分が持ってきたものは本物だったと思っていればいいのだから。
つまり、土方の言葉は夏太郎に聞かせるためのものなのではないか。土方は土方で、夏太郎を疑っているのでは?
あの駅逓所関連の夏太郎の行動における描写が、あれで終わるにしてはどこか引っかかるものがあったんですよね。夏太郎が白だったにしても土方は黒だと思っているとかいう事もあり得そう。そして五枚すべてが偽物の可能性は低いと分かっていつつもあえて言い切ったとか。
まっ一番あり得るのは普通に言葉通り今回偽物が土方勢に渡ったっていう素直な解釈なんですけど~!
あと江渡貝邸の忘れ物が本物だった可能性もまだ残っているからな。江渡貝邸には津山の皮と江渡貝くんが持ってた皮、二枚の本物があったのだから。津山の皮を資料のために江渡貝くんちに置いていったことを思うと、今回永倉が言った「鶴見は常に一枚着ているはず」という情報も微妙に古いような気もしなくもないんですよね。多分火事の時に着てるのを目撃した白石経由の情報ですよね? 確かにあの後江渡貝くんにお披露目した時も着てたけど、杉元から皮受け取った時は着て楽しんだ後普通に脱いでる描写が見受けられるしな。まあ一度見た本物がその後手元に来てないことを気付かないとも思えないから、やっぱりあの鞄で鶴見の元に届いたのは本物二枚+偽物五枚だったと考えてますが…。
うーん考えれば考えるほどドツボだな。何より“作られたのは六枚”だという情報を第一発見者として土方勢+杉元勢に情報共有したのは尾形だったんだよな。あの江渡貝邸で尾形に会った事をおそらく鶴見に報告してない月島といい、誘拐事件の主犯だった鶴見の元側近三人組は、全員妙にきな臭い部分がある。そして鶴見も彼らを信用し切ってはいないし…うーん灰色ですわ~~~~

金カム207話「塹壕から見えた月」感想

やっと久しぶりに現在の鶴見中尉のお姿が見れてうれs…ぜ、全部見せてる…
唐突なノルマクリアに動揺を隠せない。どうしてみんなカメラに向き直るんだ。基本的に股間は隠すものという至極真っ当な態度を見せている尾形の方がむしろおかしいみたいじゃないですか!!(狂った状況で正常なままの人間が一番狂っている)
しかし、かなり鍛え上げられたお身体であるという事は時折垣間見える筋肉や身体能力からも分かっていましたが、やっぱバッキバキなんですね。門倉部長とは大違いだ。カッコイイ…最前線走るだけある…尾形とスチェンカしてほしい(どうして尾形の傷を増やしそうなこと言うの?)

「まさか按摩のふりをして我々の動きを探っていたとは。この皮の持ち主は大した度胸だ」
「それにしても有古。よくぞ雪崩の中から死体を見つけ出したな」
鶴見が既に"有古は都丹を殺していない"と知った上で言っていると思うと物凄くイヤらしい揺さぶりのオンパレードです!! 鶴見中尉こういうとこあるよね〜「高貴な血統のお生まれだからな」を筆頭としてさ~(あれは隠し事も無い中での煽りだから別格だが)
ナチュラルにサディストなんだろうな。そういうのわりと嫌いじゃないです!
肩を抱いたり手を掛けたりしながら話しかけて誘導するのも鶴見の十八番。こういう風に話されると圧迫感がすごいんですよね…私も実際やられたら有古みたいな気まずげな反応しか出来なかった覚えがある。そう考えると膝を撫でるというかなり親密度の高い接触をされながら「たらしめが…」と笑う余裕があった尾形の反応の強かさは今も際立っているな。あるいは尾形は、こういうパワハラ的な接触はされ慣れていて耐性があったとか(悲しい想像)

「運が悪ければ…刺青人皮の暗号が春の山菜の肥やしになっていたかもしれない。あるいは、野犬が掘り起こして餌になっていたかもしれない」
「一枚でも欠けたら金塊は永遠に、誰にも見つからない可能性があると思うと、ひやりとする話だな…」
そうなんですよね。杉元が初め出くわした酒飲みのオッサンもヒグマに食われかけてましたし、何人分かの刺青が永久に失われる機会なんていくらでもあった。ただでさえ脛に傷のある人間ばかりで平穏無事に暮らせる確率は普通の人よりずっと低いし、それに金塊なんて興味がなく樺太にまで渡ってしまっていた岩息の例もある。刺青人皮が全員分揃わないと解けない暗号で、そしてそれだけが金塊の在り処を示す唯一の道標だとしたら、あまりにもリスキーすぎる。投獄されて監視もされて、それしか方法が無かったと言えばそれまでですが…確実性が無さ過ぎるのではないだろうか。まるで、むしろ永久に失われた方が望ましいとでも言うような…

この鶴見の言葉はどういう意図の発言なんだろうな。二通り考えられます。ひとつは今言った“暗号そのものへの疑念”を抱いているがゆえの述懐。そしてもうひとつは、この有古の造反を燻り出すような遣り取り自体が、有古が「都丹のものだ」と偽って差し出してきた人皮を入手するためのものだったが故の…という可能性。
有古が出してきた人皮が本物か偽物か、という所が問題なんですよね。以前夏太郎が賭場で掴まされた偽刺青人皮が一枚土方勢にはあるので、都丹にそれを土方が託していて、今回の偽装に用いた…という事も考えられなくもないですが。有古が個人的に本物を所有していた、という可能性も十分あるんじゃないだろうか?
偽人皮は鶴見陣営発なわけだから、まだ判別方法も土方勢では分からない以上渡せばすぐに見破られる危険もあるし。
鶴見陣営は、まず有古が都丹を殺すかどうかを試し、そして殺さなかったとして土方陣営へ行く素振りを見せるかどうかを試した。もし都丹と手を組むとしたら、都丹の死を偽装するために、既に持っている刺青人皮を出してくる筈…みたいな。まあそれだとその持ってた一枚を有古が入手したのはどのタイミングなのよって話になるけど。

でも多分有古が血だらけになって決死の思いで「全部盗ってきた」と抱えてきた刺青人皮は、十中八九殆どが偽物で…それを考えると可哀想で可哀想で…;;
「これが中尉殿の持っているすべての刺青人皮でしょうか?」「そうだ(闇)」だもんな。悪いお人やでホンマ。
菊田さんも、ハブられてたのは全部有古に行動を起こさせるための演技でしかなく、初めからずっと鯉登誘拐事件の時と変わらぬ鶴見の忠臣でしかなかったんでしょうか。
「残念だよ。お前はあの塹壕から見えた月を忘れちまったんだな…」
もう完全に師団の人間だと、仲間だと思っていたのに、という嘆きでしょうか。でも、それは他にホームがない菊田の側だけに都合のいい理屈です。日本兵である前に、有古はアイヌです。
どれほどかけがえのない時間を仲間と共有したとしても、そのことがそれ以前に過ごした特別な場所を消し去って塗り替えるというわけではないし、また逆に、そのことが異なる地で仲間と共に生きた時間を嘘にするわけでもない。
一人の人間の中には一つの世界しかない、なんてことはないんです。だから一つの世界に縛り付けるような庇護は、限りなく支配に近いものだということを知っておかなくちゃならない。そうだろアシリパ(飛び火)
しかし苫小牧の殺害現場で遺品を回収したのは鶴見中尉である、という情報はわりと狭い範囲にしか共有されていない情報のようですね。誘拐事件の時の三人と、接触したインカラマッくらい?
尾形の持っていた『遺品に傷をつける』等の知識はもしかして有古由来ではないかと考えたりもしましたが…でもそうだとして、尾形が本格的に造反に乗り出したのは父上殺害後だろうから奉天で離脱した有古に鶴見側の情報を流す機会なんてどっちにしろ無かったか。
なんか師団内の誰しもが他の誰かに監視されている感じですね。五人組とかギルドとか、少人数の監視させ合うコミュニティを人為的に作ることは統治と支配に有効だとどっかで見たような気がしますが…。
有古の父親のマキリがどれかという事まで調べがついてるとか恐ろしい。指紋で特定したのかな? だとするとキロランケの指紋がついていたという話も信用していいのだろうか。

しかし今回初めて金塊強奪事件の“被害者側の遺族”という存在が明らかになり、そりゃそうだよな、殺された七人の方にも家族はいるよなあと改めてシュンと正座する気持ち。
考えてみればアシリパは加害者側の遺族なわけだ。といっても“殺したのは私じゃない”そうだが…。有古はのっぺら坊を恨んでいるだろうな。
ウイルクもキロランケも言ってみれば北海道アイヌの金塊を横から「君たちのためにもなる事だから」とかすめ取ろうとした異邦人なわけで、本来の金塊が集められた目的であった“和人に抵抗する意思”を持つアイヌアシリパとは別の方面から出てきたという事になる。
やる気もガッツもあるようだし「戦うのはアシリパさんじゃなくたっていいじゃないか」という杉元(と尾形)の主張がキロランケ亡き今少し現実味を帯びたと言えなくもない。というか杉元はともかく尾形は有古を知っているとして、その行動の幾分かには有古の存在が想定されていたんだったりして?
何にせよ宇佐美怖すぎ。風呂場覗いてるのも心霊的に怖いし、噛みついてるのも化け物的に怖いし、血管ビキビキ言わせてキレてるのもガイキチ的に怖くて恐怖の種類を一人でフルコンプしてる…なんなんだよその抉るようなコークスクリューブローは…
譲れない故郷と民族への信念のためやむなく裏切った真面目な有古でこの反応なら、特別近くに居たのに派手に裏切った孤高の山猫がこの宇佐美や菊田とカチ合ったら一体どんなキレ方をされるのかと思うと想像するだに恐ろしい。裏切者には死を!
しかもこれ「数時間前」ということはあの都丹さんとの合流まで有古はこの状況から数時間耐えたってことですよね。ここからがほんとうの地獄だ…。
でも都丹さんがご健在でよかったです。何とか無事逃げ延びてくれ有古。死ぬ思いで持ち出してきた人皮が偽物でも落ち込まないでね…。
杉元と鶴見の刺青が共有された今、他の陣営と被りのない刺青を着々と集めている土方勢が暗号に関しては一歩リードか?と思っていましたがここでこういう展開になるとはね。情報将校こわすぎ。

ということで一週休みの間に溜まったツイートを貼って来週を楽しみに待ちたいと思います。もす!

金カム206話「ふたりの距離」感想

すごいどうでもいい話していいですか? 書きたいけどなんかやる気が出ねえな~次週休載だしまだ書かなくてもいっか~と色々見てたら、尾形がこれまで小樽・茨戸・夕張等でことごとく接近戦においてボコられてきた図を見ている内に急にテンションが上がってきて今これを書いています。私尾形のこと好きすぎでは? 早く尾形出てこないかな~(ナメた読者)

スピーク・ライク・ア・チャイルド

本人たちは真剣でも、どこかままごとのような学芸会。それ自体が既に思い出であるかのように笑いながら、出来たばかりのフィルムを各自の身内ごとに固まりながら鑑賞する一同。
出来の悪い自主製作映画、知り合いだけは面白いホームビデオのような映像。その後に、不意に映し出される見覚えのある風景。登場する一人の男。
「アチャ!?」
「え? これがウイルク?」
白石ってウイルクの手配書はよく見てなかったのかな?(水を差すような疑問)まあ人相書き、しかも若い時代のとは全然別物か…
すっかり北海道アイヌに馴染んでいる様子のウイルクさん。マキリとか器用に作って(なんでも器用にこなしちゃうんだろうな~)北海道でもモテていたそうですね。ああ後ろにはフチも…。
そして隣に映る、見知らぬ女性。初めて明かされる、アシリパの母…!
す、素敵な感じのひとだ…アシリパの凛々しさとひょうきんさに女性らしさと落ち着きを足したような…ウ、ウイルクこの野郎…(謎の憤り)
回想の比較的多い漫画ですが、毎回過去編への入り方や情報の出し方に工夫があってすばらしいですね。今回のアシリパの母の顔という重大な新情報も、単なる過去の開示という形で読者だけに見せるのではなく、シネマトグラフというギミックで登場人物も同時に知る構成なのがまさに転換点という感じ。
一生知る機会は無いと思っていた母の顔に、どこか実感がなく呆然としていたものが、おそらく“自分”である赤子の存在が映ることで本当だと…ああ自身に記憶は無いけれど、これは本当に私の母親なんだと腑に落ちたように、画面に声もなく見入るアシリパの図が切ない。

「あなたの父上は樺太から来たアイヌで、結婚するために日本の戸籍を取ると言っていたよ。戦争がまた起きたら招集されるからやめておけと冗談を言ったんだけど、このあと日露戦争へは参加されたのかね?」
結婚前の映像…ということは、インカラマッの回想が本当なら丁度この頃彼女はウイルクのもとを去ったということになりますね。「奥さんと幸せにね」と言っていましたから。しかし小樽のコタンに訪れたことはない? フチとはアシリパが危険だと予言した時が初対面っぽかったですよね。小樽には居たが滞在していたのはフチやアシリパ母のいるコタンではなかった? というか結婚前に既に子供を? ウ、ウイルクこの野郎…(二度目)
それにしてもお似合いの夫婦という感じだ。ウイルクの只者じゃないオトコ感に女として負けてないっすわ。この幸せそうな二人を前にインカラマッは淡い恋心を胸に秘め、二度と会うことはないでしょうと言って身を引いたわけですね…
しかし映像の内容を見るとウイルク自身がアシリパに語っていたように、北海道アイヌ文化はやはりアシリパの母から教わっているような印象を受ける。インカラマッの話はどこまでが本当なのだろうか? でも実際着物を見てウイルクはインカラマッだと分かった様子だったしな…確実に顔見知りではあるんだよな…インカラマッはまだ何か重大なことを隠している気がしてならないのですが。何故ウイルクはインカラマッのことをアシリパに一言も語らなかったのだろう?

そして今はもういない“過去”の人しか映らぬ映像の中で、一人だけ、皆が知っている男の姿が。
こちらを振り向く穏やかな顔。一瞬だけ目と目が合う。その瞬間、燃え上がるフィルム。
私が先遣隊なら「祟りじゃ!キロランケの祟りじゃあ!」って震えながらお経を唱えるシチュエーションですが…まあ日露戦争帰りにそんな事を言ってもしゃあないか…
結局日露戦争にはキロランケだけが招集され、ウイルクは開戦前に“のっぺら坊”となったわけですが。キロランケはのっぺら坊=ウイルクだと知っていた。アシリパと最後に会ったのはウイルクの葬式、つまりキロランケはウイルクの葬式に友人として参列しながらもそれが偽装だと知っていた。“ウイルクは死んだということにする”側の人間だった。
しかし網走監獄にブチ込まれたのはキロランケにとっては予想外だったのでは? 顔の皮膚を焼いて判別不可能になったことも。性格的に友人がそんな目に遭うことを手段として承知出来そうにないというのもそうだし、アシリパにわざわざ確認させたということは確信が持てない部分があったからこそだろうし。
ただパルチザンとしての元々の“北海道アイヌに潜り込んで彼らの蓄えた金塊を奪う方法”が、「村長の娘と結婚し有力者の地位を手に入れ、扇動し、和人に対抗するため金塊に手を付けようとしたまさにその瞬間に独り占めすること」だったというのはあり得るようにも思う。ウイルクは目的のためには躊躇いなく仲間も始末出来るような冷徹な男だということは樺太の旅で明らかになった。
しかし「あいつが…変わってしまったんだ。金塊の情報を古い仲間たちに伝えに行くはずだったのに…」とキロランケは言った。
村長たちを殺す手はずだったのにウイルクは土壇場で殺すことを拒否した、とか? 死体がバラバラだったのは爆弾=キロランケによるもの、とか。うーんでも、それだとのっぺら坊化の謎が置いとかれたままだな。
そこで浮上してくるのが鶴見の存在ですが。幼い赤子に口づけるウイルクの姿は長谷川幸一を否が応でも彷彿とさせる。
戸籍を取ったことで鶴見が照会出来る足掛かりになった可能性は非常にありそう。そして金塊強奪事件の現場検証をしたのは鶴見中尉である。もうこれだけで鶴見が一枚でも二枚でも噛んでないわけなくない?という気になってきますが…
不思議なのは鯉登家=海路の入手(多分)に目をつけてるのが比較的早い段階っぽいところ。金塊関連で必要なのではという想像をしていたが、それにしたって目星をつける根拠がその時点であったのか?
でもそうか、ウイルクが入手した“ロシア政府から漏れてきた「ある情報」”を、スパイだった長谷川幸一が同様に入手している可能性も十分にあるな。経路が違うだけでウイルクと鶴見はほぼ同時に金塊争奪戦をスタートさせていた?
のっぺら坊にしたのが鶴見だったら超コワいですね。「お久しぶりですグリゴリーさん」なんつって。
何にせよ共謀してキロランケに写真を撮らせ、最終的にその写真を鶴見に流すことになった杉元も、そして土方も、まさか鶴見とキロランケたちにあんな因縁があったことなど知る由もなかったでしょう。
『写真』はこの作品の大きなキーアイテムですねえ。新聞にアシリパの写真を載せようとしている土方。残っていた過去の土方の写真。一人一人撮った写真。勇作の遺影。花沢中将の肖像。現在撮った活動写真。過去撮られた活動写真。
そう考えるとスパイとしてであっても写真館を開いていた鶴見が“撮る側”なのは、何だか暗示的な気がしてきますが。あと尾形だけ写真館に居たのに写真を撮っていないところも。啄木と飲んでた白石も、撮らなかった側に含めて良いのか迷いますが…

父、母、そしてキロランケ。同じ文化を生きた、文化を己に共有してくれた人たちの存在を、活動写真によって“他者の姿”として目にしたことで、内に溜めていた葛藤をはっきりしたひとつの問いにして吐露するアシリパ
立派な子ですわ。父を殺したというキロランケに拭い切れない遺恨を抱えつつも、その思想と、見せてくれた世界に関しては無視してはならないものだとして拾い上げる。悩みながらも真剣にその遺志に向き合って、足掻いた結果の映画撮影だったんですね。
映画撮り始めた時、それはキロランケの言ってた文化を残すってことになんのかい?という感想を抱いたんですが、私などが疑問に思うまでもなく自覚されていた問題意識におみそれしましたという気持ち。

 「守るためには戦わなければならないのか…」
生活が無ければ文化もない。その土地に住まう民族が生きる上で、最適化され洗練されていったシステムが“文化”を形成する。
形骸化されてしまえば、残ったとしてもそれはただのコレクションになる。ダンさんが金で買い取った花嫁衣裳のように。
我々からすれば大切に育てた小熊を“良いこと”として皆で殺す儀式は奇異なものに映る。野蛮な印象すら抱く。しかし彼らはそれを信仰として行っており、決して悪趣味な遊びでもなければ、命を軽く扱う意図もなかった。
その文化も今はもう記録としてしか残っていない。最後に行われたのは一体いつなのだろう。
内地と北海道で和人とアイヌの交易が始まってから長い間、和人はアイヌを学が無い相手だと差別して、かなり不当な取引ばかりしていたという。魚を数える時にゼロも数に含むのだと言って多めに巻き上げたりしていたと、昔学校の授業で聞いたことがある。
鎖国をやめろと外国から黒船が来航してきたのと同じように、国内でも和人はアイヌの文化に迎合を迫った。少ない者は数の多い者に圧し潰される。培養されていたシャーレには違うものが混入して、もう元には戻らない。
現在世界で現代文明と接触を断ち、民族の自治を守ることに成功している民族は北センチネル島のセンチネル族くらいだろう。余所者が島に近付けば矢を射られて殺されるらしい。完全に島内で完結した生活により、外の病原菌に対する免疫を持たないため、保護の観点から政府も外部の者の上陸を法律で禁じている。
それぐらいしなければ、民族がグローバル化の波に流されないことは不可能ということなのだと思う。別の民族だが、十年前には住民の殆ど全員が驚くほど良い視力を持っていたのに、現在はインターネットやスマホが普及してしまった影響で、あっという間に視力が落ちて眼鏡すらかけるようになっているという話も読んだ事がある。
先の北センチネル島も、ネットで情報を知った旅行者が“観光”に訪れようと金でボートを雇い、上陸はしないまでもギリギリまで接近するケースが増えてきているらしい(その“客”の中には日本人もいるとか)。マジョリティほど公平なモラルからは遠ざかる。多数派の傲慢さは止められない。離れた孤島だからこそ、ここまで文化の流入が防げた点は大きいだろう。島内では常に接近する船やヘリが無いか、交代で見張りを立てているのかもしれない。地形が政治に与える影響は計り知れないほど決定的だ。
土方は、北海道を日本とロシアの緩衝国として独立させる意図で動いている。それに対し杉元は「独立なんかすれば下手すれば内地と戦争だ」と言っていたが、そんなことは土方も承知の上で、それでもアイヌは蜂起するだろうという目算があるのだと思う。これまでで、和人からのアイヌへの脅威はそこまで描かれていない印象だが…実際に消えかかっている文化がその根拠になっていくのだろうか?

大人はわかってくれない

あの相棒再契約の際の「別に…」でヒエ~ッってなって以来、再び訪れた杉元とアシリパのタイマン勝負! 今度は隠し事もなく、しかもめちゃくちゃ冷静に思っていることを全部言ったので杉元を見直しました。何ってその話術に。やっぱ自分の決めた事に関してはブレがないだけに、腹が据わってるんでしょうね。
でもめっちゃ目に影入っててこわいよおッ!ってビビる形相だったのが、「私のためじゃなくて自分を救いたいんじゃないのか? 私の中に干し柿を食べていた頃のような自分を見ているだけじゃないのか?」という問いでスッと冷静になり「それもある」となったのは、アシリパの問い方っていうのが“惜しかった”からなのかなとも思いました。そのものズバリの核心じゃないから冷静さを取り戻した感じ。
確かになんか、杉元が後半に言った親の在り方を問う憤りと、アシリパの指摘した“かつての自分の姿”を見出して救われる心理というのは、どちらもエゴであるという点で確かに近いし掠ってるんだけど、微妙に違うものの気がする。
どっちにしても救われるのは自分っちゃ自分なんだけど、干し柿を食べている頃の“自分”っていうのは「もう戻れない」と“諦めきっている自分”であり、杉元の“救い”とアシリパの指摘した“救い”は少しだけ異質というか…杉元の熱意は完全に“親”って感じなんですよね。自分はいいからこの子だけは…!!みたいな。アシリパの入った脱出ポッドだけ射出して自分は船内に残るみたいな。
アシリパの言うこと、つまり「自分の果たせなかった望みを託して自己実現を図ろうとしている、それは自己満足に過ぎない(byユリ熊嵐)」という指摘も「確かにそれもある」なんだけど、杉元の中でそこのフェーズは既に過ぎているというか…そういう“夢”を見させてくれたアシリパ自身に、もう杉元は救いの主体を移している印象。そして純粋に、自分が“救われなくなった”原因の病を彼女に持ち込ませまいと隔離しようとしている。彼女が彼にとっての彼女で在りさえすれば、そこに彼自身を見出せなくても、自分という存在が関連づいていなくても最早大した問題ではないというような…
エゴはエゴでも断絶したエゴイズムというか。その相容れなさを本当に理解した時に、アシリパは“偶像”の本当の意味を知るのだろうか。

しかしまさに「ふたりの距離」だと思いますが、杉元の考え方の枠組みというのはどこまでいっても“個人”なんですよね。親に対しての“自分”。人を殺さざるを得ない“自分”。たまたまそういう環境に置かれた“自分”。
個人、自分、という“考え方”が一般的になったのはそれほど昔のことではありません。昔の人間は“ムラ”や“イエ”等の一部として構成される一個の装置であり、自由意志などというものは何処にも属さない人間の狂気に過ぎなかった。ゴールデンカムイの時代は丁度そこの過渡期という感じの印象ですが。
西洋的な概念…といっても世界で個人という概念が初めて登場したのもフランス革命だという話を読んだことがありますし、人類がどこにも属さない“己”に目覚めたこと自体がとても最近のことなのでしょう。
そしてアシリパは父から、祖母から、村の大人たちからアイヌの伝統を口伝され、民族の輪の中で育ってきた“アイヌの女”です。
「新しいアイヌの女」と自称し、女がすべき縫物や編み物をせず、勇ましく山で鹿や熊を獲るアシリパの姿に、杉元は「自由」を見たのでしょう。
しかしそれは若くして結核により家族を全て失くし、村八分され、家を捨て、一人で生きてきた杉元の“自由”とは全く別のものです。孤独に彷徨し、「どこにもいられなかった」杉元の“個”と、多くの可能性を与えられ、過去から積み上げた未来という先を託された「どこかを決めなければならない」アシリパの“個”は決定的に違うものなのです。(ひどいことを言っている自覚はあります)
現代人からすれば杉元の言っていることの方が確かに理屈として共感出来るでしょう。子どもは親の所有物ではない。親がやれと言ったことに子供が必ずしも従う必要はない。
しかしそれは“子供”に“従う”という“主体”があること前提の理屈です。
例えば親と話す時の自分と、学校で友達と話す時の自分は違う。それは学校という、“親という存在抜きで成立する世界”専用の自我が育まれるから。そしてその自我が、親という存在を別の角度から見る視点を可能にする。
しかし学校などなく、親と暮らす家で、そして誰もが親を知っている村の中で、世界が完結していた時代は?
どうして“従う”なんて言葉が出てくるでしょう。共同体とはそういうものです。ただ一緒にいるだけの他人、ではなくて一個の意思を共有する大きな自我なのです。人間の自意識が肉体で区切られているなどというのは幻想です。
“別の意思を持つ他者”としてウイルクやキロランケをアシリパに対置する時点で、杉元にはそれが分からない。杉元は帰る場所がない。自分が大きなものの一部として思考する感覚が分からない。
どちらが良いか悪いかという話ではありませんが…。
共有、ということが“不死身の杉元”にはない。でも確かにそうした杉元の存在は、強烈にアシリパに“新しい世界”を与えるものでもあって…。
樺太を旅し、新しい世界を見て、旧い世界を守らなくてはという意識の芽生えたアシリパ。過去は常に断絶し、未来も常に決まっている、どこへも行けない杉元。
今回の杉元は、「ああ、“大人”だなあ…」と感じられてならない。あらゆる意味で。

ところで尾形が「この金塊争奪戦から“上がり”だ」と形容したのに対し、杉元は「この金塊争奪戦から“下りて”ほしい」と形容するこの真逆の言い回しがチョー素晴らしい。
なんかこういう細かい部分に、ああ確かにそれぞれこう形容するだろうな、って腑に落ちる言葉を選べるところに感動してしまう。キャラクターがものすごく作者の中ではっきりしてるから出来るんだろうな。
杉元と尾形、どっちもアシリパに対し「金塊見つけたらあとはすっこんでろ」という主張は共通していますが(言い方)、尾形の“上がり”は金塊争奪戦というものに誰でも“上がれれば勝ち”のババ抜きとか大富豪みたいな、その場にいること自体が“忌まわしいもの”というニュアンスがあるのに対して、杉元の“下りる”は主体的に参加する競馬とかルーレットみたいな、意思のある者が目的のために自分から場に立つもの的なニュアンスがあるように思える。
杉元は常に己の意思だけを生きているからな。もうね、これは純粋に褒めているんですけど、杉元のこの揺るぎない“押しつけがましさ”が本当に「強い」と思うんですよ。
尾形と比べるとよくわかる。尾形のアシリパに対する説得読んでて、私は「こいつ本当にいいヤツなんだなあ」と思ったんですよね。勿論語弊があるんで今から言い訳させてほしいんですけど。
あの時、説得に用いる材料がたとえ下手な嘘や隠し事だったとしても、だからこそその裏には“アシリパ自身がそう思わなきゃ意味ない”という動かざる前提があったじゃないですか。
他者に行動を促す上で、その者自身の意思に重きを置いてしまうその無自覚であろう思考のフレームは、母親を殺した動機すら“母が”父に会えるだろうから、と言い放った尾形の、おそらく生来的なものなんだろうと思う。
自分の意思を、他者の意思を押し退ける上位に置くということが出来ない、というより発想にない。どうしても並列する意思の一つと位置付けてしまう。本当の意味で、どうしても“偉そう”になれない男なんだなあと。
尾形が他人に対して偉そうになる時は、そうできる根拠がある時…普通は銃では獲れないヤマシギを卓越した射撃能力で仕留めてみせた時や、自分の方が三八式を持つ有用性があると主張した時の見下しとか…“相手にとって”そう認めざるを得ない道理がある時だけなんですよね(だからこそ利き目喪失&三八式水没が大ダメージだったわけですが)(「ボンボンが」は「お前は本当の地獄を知らねえんだ」的ないわゆる低見の見物ってやつだと思う)。
しかし本当に偉そうな人間というのは、他者の意思など斟酌しない。むしろ根拠も正当性もなく上から物申せることこそが上に立つ者、命令する側の者(いわゆるS)としての絶対条件なんです。「出来ねえじゃねえ、やるんだよ」の精神。
天は人の上に人を作らず、突き詰めて考えれば誰も人を支配したり使役したりする権利はない。だからこそ逆説的に、人を駒として扱う者は人を駒として見る必要がある。
「あんたについていく人間が可哀想じゃないか?」って訊いた時、土方は尾形のこと「面白い奴だな」って思っただろうけど、同時に「あまり警戒する必要がない奴」って判断を下したと思うよ。ナメられたと思う。本当に怖い奴っていうのは杉元みたいな、誰も信用せず自分の意思だけを優先する男だもの。こっちの意思なんて問い掛けすらしない奴。
“自分”は己という不可逆の意思を実行する単一存在であり、周囲はすべて“不確定な対象”に過ぎない。その間は完全に断絶している。だから“己以外の意思”とは、本質的に“関係ない”もの…そういう割り切り、開き直りが杉元の強み。
だから尾形に感じた「いい奴」っていうのは、行動での評価ではなく(実績は作中トップクラスの極悪だからネ)、“思考する能力”が「いい奴の能力」だなって。尾形に対してこれまで不思議と理性の塊のような印象を抱いてましたが、それは彼の思考における主観と客観の公平さにあるんだろうと思います。
そして最近私は杉元のことを「超つよい悪役」として読んでるんですよ。彼は反対に行動、実績は正しいのに、思考回路は悪のそれなんですよね。主観と客観の徹底的な断絶、その上でのクレバーさ。
尾形は環境によってはすごい善良に生きそうだけど、杉元はどんな環境でも気に入らない上官や上司を殴ってしまうと思う。
まあ完全に個人的な基準ですけど。善玉だと思って杉元を見るとバグるけどヒールだと思って見ると超カッケーのでそう思って読むようにしているんです。そして、群像劇ってそういうものなのかもしれないと思って。
何にせよ大切にしているご両親の姿を見た後だと二人とも娘に近付いてほしくない男すぎるな。ハードすぎるもん。
がんばれアシリパ…口のうまい男に負けてはいけない…!(口下手な男もがんばってほしい)

不条理と報復感情の消化

※日記です。いい話はしません。京アニの事件の話で始まり終わる話なので精神衛生のため情報を遮断している方はご注意ください。

今週の金カム大事な回だったので思ったことは色々あって、雑感をメモってあるから後で感想書きたいんですが、その前に木曜起こってしまった京アニテロ事件があまりにも痛ましくショックなので整理するために自分の感情を文章化して少し区切りをつけたい。
悲しみというより殺伐とした感情が大きいので褒められた話は全く出来ません。
~べきだ、というような話もしない。ただ“諦め”という形の感情の妥協点を倫理度外視で探した結果の記録。

まず仕事を終えた私は惨事のニュースにビビった。

それからしばらく新たな情報を求めて情報収集にかぶりつきになり、しかし濁流のような顔の見えない発言の流れの中、同じ話題や古い話題の繰り返しが慢性化してきたリアルタイム情報にとりあえず見切りをつける。被害者の無事を願う声や発足する募金活動、京アニ作品の布教や祈りの声などを横目に、私はガソリン爆発事故の映像や大火災事故のニュース映像を片っ端から見始めた。

常識の範疇を超える大勢の人が一気に亡くなったニュースに呆然とする状況、過去の経験として鮮烈に印象に残っているのは、やはり先の東日本大震災だ。
私はあの時も同じように、ネットでニュース映像や現地の人の撮った映像をひたすら見ていた。あの時も今回も「悲惨な情報をずっと見ていると精神に悪影響の場合があるから自衛しなさい」というアナウンスがあったが、私はむしろ他人事として隔絶しようとシャットアウトする方が労力を使うタイプかもしれない。ひたすら自分が同じ状況だという想像力をなるべく働かせている内に落ち着いてくるというか、諦めがついてくる。何の道理もなく非業に死んでいく人々、痛みも苦しみもない平穏の中でそれを傍観する自分、その説明のつけられない運命の差別がただの偶然に過ぎず、「自分はいつでもこうなり得るのだ」と納得することが逆に“こうなっていない今”とのギャップによる不安、不穏を和らげる気がする。
(ただ基本私はテレビを全く見ないというか、テレビで情報収集をしないようにしているしSNSは話半分で見るようにしている。どちらも整理され切っていない他人の感情と解釈が情報とセットで入ってくるので、確かにそれにどっぷり浸かるのはやめた方がいいなと思う)

私は青天の霹靂の防ぎようのない被害によって、磨いた技術を用い世界に多大な恵みを齎してくれた大勢の素晴らしい人々が凄惨な死に方をした事実を、その“回避不可能”という点から天災や大事故の類のように“処理”して不条理への折り合いを付けようとしたのだった。
しかし情報収集中に、道路に横たわる犯人の腹から下の鮮明な画像を見て、「ああこれが犯人か」と、この大災害は明確に“人為的な”ものであるという認識が出来てしまったことで無理無理の無理になる。

無気力による廃人からの覚醒→「死ぬのはイヤ…死ぬのはイヤ…」→「殺してやる…殺してやる…」と量産機に手を伸ばした惣流アスカラングレーみたいなことになった。
非業の死という結果と、そうなるに至った要因を切り離して、結果だけを悲しむということが“人為によるものである”という事実を前に難しくなったのである。
それからは、罪とか罰とか報復感情とかそういう事について考えていた。
犯人は犯行後に近隣の民家のチャイムを鳴らしまくり助けを求め、現在意識不明で治療中らしい。過去に精神疾患の病歴があり、犯行の動機はアイディアを盗作されたからだと供述したという。
動機が本当なら十中八九「あの時外に出した俺のアイディアを盗んだに違いない」とか「俺の思考が覗かれている」等のよくある盗聴妄想であると思われる。どうでもいい。認識した全てを自分に運命付けてしまうお花畑の住人は病名付いてる付いてないに関わらず世の中には多い。
胸糞なのは、脅しに留まらない明確な殺意があった事は上のツイートで書いたように間違いないだろうが、死ぬ気は無さそうな所から見ておそらく自分も問答無用で巻き込まれるほどの威力がガソリンにあるという認識は無かった、つまり犯人の馬鹿さがここまでの凄惨さを引き起こしたのではないかと思われる点である。
知り合いでもない、話したこともない、ただ黙々と仕事しているだけの一般女性に問答無用でガソリンをかけて火をつけるなどという鬼畜の所業を、一体この世のどれだけの人間がやろうなどと思うだろうか?
ガソリンは気化するので燃えるというより爆発するらしい。映像をいくつか見たが酷いものだった。しかし犯人は“灯油よりよく燃える油”程度に思っていたんじゃないだろうか。それにしたところで見ず知らずの人を逆恨みで焼き殺そうとしているのは間違いない。救いようがない。

しかし重体で意識不明であるとする犯人の処遇について、絶対死なすな、証言させないと被害者も遺族も浮かばれない、きちんと罰を受けろ、死刑にしろ、死刑では足りないだろう拷問しろ、同じ目に遭え、というような色々な意見を見ていると、犯人に抱く憎悪の行き場として、自分の腑に落ちる結論というのは何になるだろう?という答えがすぐには出なかった。
「100万回焼死して欲しい」などと書いたのは、もし“同じ目”に遭ったところで犯人の一回の焼死体験に対し、犯人によって亡くなられた方の数は33名(これは追記だが今朝34名に増えた)、建物内に居た方々の総数は約70名、二次被害三次被害も考えたら計り知れず、単純に一回だととても釣り合わないと思ったからだ。そしてそんなことは現実には不可能だと私はもちろん理解している。一度死んだら帰ってこないからこそ人命は尊く、だからこそそれを奪う行為は許され難いのだから。そして全然足りないその“一回”に、どれほどの意味があるのだろう?という気持ちになってくるのだ。(これはモラルの話ではない)
死刑以外はあり得ないとも確かに思う。『ウトヤ島、7月22日』として映画にもなった(映画は観れてないが)ノルウェー連続テロ事件の犯人は、単独で無差別に77名もの人々を爆破と銃乱射で殺害したが、ノルウェーには死刑制度がないため禁錮最低10年、最長21年という判決が下された(これが最高刑らしい)。しかも割と刑務所内は快適らしく、所内のゲーム機をPS2からPS3に変えろという要求を犯人が出したり、あまつさえ服役しながら大学への入学すら許可されたらしい。専攻は政治学、悪い冗談みたいな話だ。自分が遺族なら憤死してしまう。あらゆる“人間”の“権利”を守る云々を理由にして死刑制度反対派になることはとても私には出来ない。

しかし死刑では足りないとなると拷問がお望みか?と考えるとそれも別にいいかな…と引いてしまう自分がいる。
よく「許せない」「絶対に許してはいけない」という言葉のあとに「犯人に正当な罰を」「死刑を」という言葉が続くのをよく見るが(そしてそれは法治国家として全く間違っていない報復感情の発露の仕方であり危険思想なのは私の方だと理解はしているのだが)、“自分”が“主体として行う”のは「許さない」という憤りの表明だけで、実際“行為する”のは求刑する検事とか判決を決める裁判官とかボタンを押す執行官なんだよな、と考えると、これは非常に嫌な言い方だが、「許さない」という“意思”を持つことは「手軽だな」という感じがしてしまう。やっちゃってくださいよォ!と煽ることが、“許さない”という意思の要件を直ちに満たす。そしてそれが法治というものの本質なのだ。検事も裁判官も執行官も自分の許さないという意思で罰を与えるのではない。国民に委託されて、分業して、役割を担ってくれているだけだ。そういう職業なのだ。
そして私刑に走らないことが、自由意志を許された国民の役割である。責任を少しずつ分担することで公平を期そうとする。

その上で考えてみる。目の前にとても許し難い罪人が、身動き出来ない状態で“用意”されていて、「お前が自分で、自由に罰を与えていい」という状況があったとした時に、私は意思により何らかの報復を行えるだろうか?
無理だ、と思った時に私はこの事件への気持ちの整理がついたような気がする。ここが私の限界だと思った。
それは情けとかではなくて、単純に忌避感だ。私は虫も中々殺せないが、虫を殺せないのと同じように人を傷付けられない。黒ひげ危機一髪みたいに刺していいよ、とナイフを渡されたとしても、刺した後苦しんでのたうち回る様子とか想像してウウッやっぱりいいですってなると思う。他のどんな苦痛を与える行為も同様である。かわいそう…なのかもしれない。でもどちらかというと恐怖に近い。殺虫剤をかけて仰向けにもがいている虫を見ると「うわぁ生きてる」と過剰にビビってしまう。「まだ死んでないよどうしよう」という気持ちになる。そしてそれは多分人間にも同じことを思うと思う。どんな人間でもだ。生物が生きているという現象はとても素晴らしいことだが、同時にとてもおぞましい。何故なんだろう?自他を問わない現象としての死に対する根源的な恐怖だろうか?(男性にも同じぐらいビビる人間はいるだろう。そう考えると戦争というのは本当に忌まわしい)

そもそも突き詰めて考えると、私は罪を犯した人間のその“精神”が許せないのであって、肉体的に苦痛を与えたり損傷させることにあまり意味を見出せないっぽい。
少し前にTwitterで流行っていた、痴漢に安全ピンで刺そうという話もいまいちピンとこなかった(安全ピンだけに)。私も学生時代に古本屋で腹立たしい痴漢行為をされた事があって、人の多い中立ち読みしていたら、さっきからやけに尻に手をぶつけていく奴がいるな…と三度目ぐらいに気付いた。人が多いからかなと気に留めていなかったが、明らかにわざとだと確信し視線を上げたら、ぶつかるフリをして触る→そのまま本を見るフリをして棚の向こうを通り過ぎ、気付いたか気付いてないか顔を見て確認する→気付いてないようだから少し間を置いてまた通り過ぎざまに触っていく…というプレイを数回繰り返して“愉しんでいた”ようで、こちらを伺ったその男と目が合った。若い、ヘッドホンをした、ジメッとした印象の男で、目が合うとふいっと目を逸らしてそのままそそくさと店を出て行った。
その時抱いた憎悪というのはものすごく、まず自分の安全に極限まで配慮したあまりにもせこいやり口がムカついたし、ただ尻に手を接触させていくだけという行為に「それやって意味あんの!?」ということが全く理解出来なかった気持ち悪さがあったし、ヘッドホンしながら自分の世界に浸りつつ私のことを愉しむ道具として勝手に利用したんだなあと思うと何様なんだマジで死ねと思った。
それでもそういう人間に対し針で刺したり苦痛を与えることで何かマシになるものがあるかというと、別にないかな…と思う。私はあくまでそうした度し難い人間に対し、強いて言えばすぐ死んで欲しいのであって、それ以外は何も関心がない。痛い思いをさせて今後反省して欲しいとか、更生して欲しいとも思わないし、そもそもただ一度の機会として齎される身体的な痛みが精神を変えるキッカケになるか?というと望みは薄い気がする。抑止力としてのアピールや、防御のための反撃手段を持っているという実感も別にいらない。既に起こった事実の落とし前をつけて欲しいのであって先のことなどどうでもいい。
だとすると報復としての痛みということになるが、痛がるところを見たところで気は晴れない。むしろ苦痛に顔を醜く歪めた様は見苦しいので出来れば見たくない。(私はウケ狙いとしての変顔にも「きたねー表情だな」と心を冷やすタイプの女)
もし直後の腸が煮えくり返った状態の時に、ホシが目の前に引き出されていたとしても、蹴ったりはするかもしれないが傷の残るような何かをする気には勧められてもならなかったと思う。肉体が損壊することは軽微でもおぞましく、それは感情とは切り離された本能だ。私のあらゆる感情は本能を歪めるほど強くなく、感情の方が折れる。

話がまったく通じる気がしない上にこちらに向かってくるという点で、理性なく他人に危害を加える人間というのは物言わぬ蠢くゴキブリと同じような存在感になる。“現れない”こと以外に望めることはなく、触るのも叩くのも嫌だし死体も気持ち悪くて片付けられない、逃げて居なくなってもまだ家の中にいるんじゃないかとおちおち安心できない…つまり滅びてほしい、そういう存在だ。存在自体に、感情抜きでただただ困る。だから強いて言えば死んで欲しいかなあ…と思う。どうして欲しくもないからだ。
そして死を願うには罪が軽すぎる痴漢にそう思う一方で(勿論こけおどしとしてだ)、罪が重すぎる人間にはむしろ延命を望んでしまう自分がいる。大勢の命を奪った精神が、簡単に死んで欲しくないという感情がある。長く苦しんでほしい、ただやっぱりそこに肉体的な苦痛そのものへの興味はない。
新世界より』という作品で、超能力者が支配する世界での極刑に処された罪人が、最大級の身体的苦痛の感覚を脳に与えられながら治癒能力で修復されて永続的に苦しみ続ける、という罰を受けていた。可能でさえあればここまでの事を人間はやってしまうという露悪的なエピソードだと思う。さっき偶然今回の犯人にこれを望んでいる人を実際見かけた。歴史上に存在してきた拷問を見ても、罪の重さに肉体的苦痛の大きさで帳尻を合わそうとする考え方は人間の癖のようなものなのかもしれない。
しかし私は可能だとしても「意味あるのかなあ」という気分になってしまうと思う。反省も後悔も関係なくただ感覚的な苦痛だけに晒される哀れな肉の塊を想像する。一つの主観の中で起こり終わる現象でしかないその激しい苦痛が、何も産み出さないことに虚しさを覚える。
ここからいなくなれーっ!!という瞬間的な破壊願望はあるけど…そう考えると身体的苦痛という事象はシンプルで明確すぎるがゆえに、続くと“飽きる”のかもしれない。
強い身体的苦痛というのは確かに最大のストレスだと思う。しかし言葉も介在しない、感覚によって齎される苦痛に思考も奪われたまま浸され、肉体の反応として消耗していくのは言うなれば機械の苦痛であり、虫を虐殺するのとどう変わらないんだろうという気がする。虫の苦しみは人の苦しみではない。理性のない苦痛に意味はあるのだろうか。
むしろ一日の大半は平穏な、インターバルとしての人間的な生活がある上で、毎日定期的に決まった時間に激しい肉体的苦痛を受ける生活が延々と続く…という方がまだアリかなと思う。大事なのは感覚ではなくそれに対する恐怖ではないだろうか。死刑制度にも、私は死そのものではなく死刑執行に怯える心的状態を望んでいる。
あと、今読んでるドストエフスキーの本でこんな一文があった。『わたしはふとこんなことを思ったことがあった。つまり、もっとも凶悪な犯人でもふるえあがり、それを聞いただけでぞっとするような、おそろしい刑罰を加えて、二度と立ち上がれぬようにおしつぶしてやろうと思ったら、労働を徹底的に無益で無意味なものにしさえすれば、それでよい。』
確かに大人がやる賽の河原はより一層辛いだろう。いいかもしれないと思った。私の憎悪は肉体ではなく精神を壊したいのだと思う。そしてそんなことを可能にする力は私自身にはない。また、資格も無い。私は悪人にもなれないが善人にもなれないと知っている。

犯人は二日経った今、意識が戻らないままだという。おそらく息を吹き返すのは難しいのだろう。生きていても既往歴があるから精神鑑定が入って無罪の可能性もあるのだろうか。しかしもう、どうでもいい。死ぬかもしれないし、生き残っても火傷で苦しい余生となるだろうが、苦しいかどうかも大した問題ではないと感じる。何もかも取り返しがつかない。どうにもならないという事実を受け止める本能を前に、私の感情はまた健やかに折れようとしている。
どうして、という憤りが去って、ようやく痛ましさをそれそのものとして完結させられるようになった。
むごい事件だ。

おらお屋敷さ行くだ(夢幻廻廊感想)

クリアしました夢幻廻廊! 『天国』(全クリENDのタイトル)に行けました! 前回赤の章でダレてて「おらお屋敷さいやだ」というタイトルでこのゲームについてちょろっと書いたんで、クリアした万感の思いを込めて伏線回収のようなタイトルをつけてしまいましたが、すみません行きたいのは嘘です。実際自分が行くのは絶対にいやです。

でも見てるぶんにはとても面白いゲームでした。というわけで理解したことを整理するため改めて感想書こうと思うんですが、超ネタバレして書きますのでご了承ください。そしてこれはオススメ記事というわけではありません。責任取れない程度にはハードな内容だったということと、その上で、私がそれを笑いながらプレイできる人間だと知られたくないので(保身)

永劫回帰

しかし、主なることは、どんな人間でももう一人の人間に牧歌という贈り物をもたらすことができないことである。これができるのは動物だけで、それは《天国》から追われていないからである。人間と犬の愛は牧歌的である。そこには衝突も、苦しみを与えるような場面もなく、そこには、発展もない。カレーニンはテレザとトマーシュを繰り返しに基づく生活で包み、同じことを二人から期待した。
もしカレーニンが犬でなく、人間であったなら、きっとずっと以前に、「悪いけど毎日ロールパンを口にくわえて運ぶのはもう面白くもなんともないわ。何か新しいことを私のために考え出せないの?」と、いったことであろう。このことばの中に人間への判決がなにもかも含まれている。人間の時間は輪となってめぐることはなく、直線に沿って前へと走るのである。これが人間が幸福になれない理由である。幸福は繰り返しへの憧れなのだからである。
そう、幸福とは繰り返しへの憧れであると、テレザは独りごとを言う。

『存在の耐えられない軽さ』より。
幸福とは繰り返しへの憧れ。つまり人間が幸福になれない理由とは、繰り返すことを望めないこと。なぜ人はそれを望めないのか?
ひとつは変化や発展のないコミュニケーションを人間の精神ではずっと続けることが出来ないため。
そしてもうひとつは、永遠に続くものなど無いと知ってしまっているため。
どちらも人間であるが故の原罪です。人は知恵の実を食べて天国を追われてしまいました。
翻って京極堂は言いました。「幸せになることは簡単なことなんだ。人を辞めてしまえばいいのさ」と。
言ってみればこの『夢幻廻廊』というゲームはその言葉を実践してみせる物語です。京極文脈では“彼岸”と称されたその境地、過去も未来もない現在性だけに揺蕩う不変の世界、動物だけに許されるはずの“永遠の幸福”。それをヒト家畜の“かとる”にまで堕ちることで手に入れる…それがこのゲームの最終目的地、“天国”です。
人間をやめて天国へ行こう!(スローガン)

というわけでこのゲームの構成ですが、舞台は“お屋敷”と呼ばれるとても巨大な謎の館です。そこで主人公は記憶の一切を失くした状態で目を覚まします。目の前には『環』という名前の館の女主人がいらっしゃり、記憶の有無を主人公へと尋ねます。
主人公は何も覚えていないはずの過去へ、しかし恐怖感と拒絶感を覚え、その“奥様”に涙ながらに頼み込みます。他の場所には行きたくない、どうかここに置いてくださいと。

「自分の居場所は、誰かの役に立つことで得られるものですよ」
黒い服の女の人は、静かな口調で語りかけてきます。
誰かの役にたつこと……こんな僕に、一体何ができると言うのでしょうか?
何も無い。
一切を失くしたこんな僕に。
過去も未来も失った自分に。
自分自身の面倒さえみられないような今の僕が、他人の役に立つことなどできるのでしょうか?
僕は、泣きそうなほどに不安になってしまいました。
ですが、女の人は、僕にこう言ってくれました。
「あなたがそうあることを望むのなら、“かとる”として屋敷に置いてあげましょう」

そうして“たろ”という名前と“首輪”を贈られ、スタートするお屋敷での“かとる”生活。
広いお屋敷には奥様の他に、四人のお嬢様と二人のメイド、そして主人公の“たろ”を含めた“かとる”が二匹いるだけ。
“かとる”の身分の者は、昼間はメイドさんのお手伝いをして、そして夜になると一日一回お嬢様の誰かひとりから“いっぷ”を受けるのが決まりである。(Whip=調教)
ゲームとしての選択肢は、「今日は誰が“いっぷ”をするか」を四人の中から選ぶというだけ。どのお嬢様にいっぷされるかによって話の流れが決まる。
このゲームの白眉なシステムは、通常ADVゲームならどんな作品でも備えている『選択肢で特定のキャラのルートに進み、クリアする→初めに戻って別のキャラのルートをクリアする→初めに戻って(ry』という物語の繰り返し構造を、そのまま作品内の世界構造に組み込んでいるということ。
一つのルートは二十日でひとまわりだが、どのお嬢様もいっぷを続けて関係が深まると、最終的に“たろ”をお屋敷から逃がそうとする。何故ならそのままお屋敷にかとるとして居続ければ死ぬ、ということを皆わかっているから。死ぬのはお屋敷での扱いとエグい調教のせいなのだが、調教含むお屋敷での生活を共にして絆の芽生えた“たろ”を皆死なせたくないのである。ただ、三女の裕美子だけは例外だ。詳しくは後述するが、彼女だけはお屋敷でのかとるの扱いがヤバいという事をそもそも理解していない。彼女のルートの場合は“たろ”が彼女を連れて行くか、拒絶されてやむなく一人で出て行くかの二択である。ただ、どのルートでも最終的に一度外に出るのは変わらない。
しかし作中で「川で生きる魚と海で生きる魚」で例えられたように、“たろ”はお屋敷の外では生きながらにして死んでいるような人生しか送れない。一度知ったお屋敷での生活を忘れられない“たろ”は、記憶を取り戻し現実に還っても、必ず再びお屋敷に戻ることになる。
そして彼が戻ることを選択した時点でゲームは一旦終了し、もう一度物語の冒頭、すべての記憶を失った状態からプレイヤーはやり直すことになる。が、実はこの二週目の記憶喪失の“たろ”は、先ほどエンディングを迎えてお屋敷に戻った“たろ”のその後である。記憶は薬によって人為的に消されている。なので“たろ”の主観では常に初めてのお屋敷の日々だが、現実には同じことを記憶をリセットして何度も何度も繰り返しているのである。そうなると最早一週目の“たろ”も初回だったのかすら定かではない。
何のためにそんなことをしているのか?
勿論“調教”のためである。何度も何度もループして、“たろ”は知らず知らずのうちにお屋敷に順応していく。
初めは“人間”だった自認が、ループを繰り返すごとに“犬”になっていく。
どうして“人間”であることを忘れて“犬”になる必要があるのか?
人間同士では幸福になれないからである。人間の愛は我欲ゆえに牧歌的ではなく、また人間は延々と同じことを繰り返すことに耐えられない。
このお屋敷の目的は“幸福”であり“永遠”。その二つは不可分のもの。喪失の痛みのない幸福、幸福の摩耗しない永遠でなければ、幸福とは言えないし永遠とは言えないのである。

しかし“永遠の幸福”のために犬になる必要があるとして、それは「永遠を幸福だと感じる」ようになるための、いわば準備に過ぎない。
人間なら知っていることだが、無限のものなどこの世にはない。誰しも歳を取り死ぬ。人生は一回きり…では肝心の“永遠”とは具体的にどういうことなのか? SFなのか? 不老不死になるのか?
この物語の一番すごい所はここで、マジに“永遠”を実現しながら、SF要素に一切頼っていない。実際あるもので確かに“永遠”だと納得できる構造を作り出しているのだ。

まず前提として、“永遠”なのは“お屋敷”だけ。
ではお屋敷とは何か、というと先ほど述べた通り。『環』という奥様がいて、『薫子』『麗華』『裕美子』『奈菜香』という四人のお嬢様がいて、『麻耶』『志乃』というメイド二人に、『たろ』『グモルク』というかとるが二匹いる広い洋館である。
一日一回いっぷをする決まりがあって、あとは皆で食事したり遊んだり生活を共にする、閉鎖的で穏やかな日々。それを、二十日ごとにループする。それが“お屋敷”という世界。
三女を除くどのお嬢様のルートでも「このままここにいたら死んでしまうから」と“たろ”を逃がそうとする…と書いたように、お屋敷の日々は文字通り死ぬほど過酷なものだ。
まず食べ物は基本ドッグフードである。他にも悪意なく生ゴミとか雑巾とかゴムとかゴキブリとか食わせられたりするイベントが必ず二十日に一回ある。あと炎天下の中素っ裸で四つん這いでアスファルトを散歩させられるのが日常で、続けていると脚がどんどん悪くなり、四つん這いのままひょこひょことびっこを引きながら移動するしか出来なくなる。寝るとき服は着させて貰えないし、毎周一回は風邪で寝込むイベントもある。靴下を後生大事にしゃぶらされたり、ボロボロになるまで鞭で痛めつけられるのは日常だし、とにかく書ききれないほど「死ぬ~wwww」という目に遭うので、“かとる”は短命である。
それだけでなく、長女の薫子も病弱で臥せっていて、“たろ”人間時のルートでは最後には命を落としてしまう。次女も人間ルートでは共にお屋敷を出て、“たろ”だけ戻るが麗華はそのまま戻ってこない。
しかしそんなルートを終えた後、次のループでは居なくなるはずの“たろ”も薫子も麗華もこれまで通り、同じ日々に同じように登場する。変わらない。何事もなかったように、リセットボタンを押したようにそこに存在する。しかし一度過ごしたループは現実の過去である。どういうことなのか?
つまり、お屋敷の構成員というのはすべて消耗品なのである。いなくなったら補充される。「私が死んでも代わりはいるもの」を地で行く世界。
『何を言ってるの? 同じ人間は二人といないんだよ? 皆かけがえのない一回きりの人生を生きるオンリーワンなんだよ?』
そういう“常識”はお屋敷では通用しない。

カウボーイビバップの「よせあつめブルース」でこんな一節があった。

食いモンはとても大切だ。なにしろ人間の体はそいつが食ったモンで出来ているわけだ。もし俺のクローン人間がいたとして、そいつがハンバーガー以外食ったことがないことにしよう。そいつと俺は遺伝子的には同じでも、まったく違った人間になるはずだ。ハンバーガースパイクは俺よりも怒りっぽいかもしれないし、日曜には教会に行くような男かもしれない。凶暴な賞金首かもしれないし、Yシャツにはアイロンをあててから着るような男かもしれない。いずれにしても、ハンバーガースパイクは俺とは別人だ。要するに食い物を選ぶときは、よくよく考えて選ばないといけないってことだ。
スパイク「こっちはロブスターの味噌煮と」
機械『カシコマリマシタ』

納得できる話である。今すぐ私が分裂してまったく同じドッペルゲンガーが誕生したとして、これから私はサラダチキンしか食わない、もう一人の私はラーメンしか食わない、という生活を始めたとしよう。一年経って、その時“もう一人の私”は一年後の“私”の完全なコピーだと言えるだろうか? 言えるはずもない。体力も違う、体形も違う、精神状態も違う。そうすれば選択する行動も、周囲からの反応も、それに伴う現象も、すべてが異なった一日を過ごすことになる。違う行動をとる二人の“自分”は客観的に見て最早同一人物ではない。
そしてこれは食べ物の話に留まらない。“私”はせっかくタンパク質とってるしと筋トレを日課にし、“もう一人の私”はせっかくラーメン食ってるしとラーメンブログを日課にしたとする。異なる習慣を取り入れ続けた結果、客観的な行動だけでなく主観的な考え方や思想、つまりは性格も違うものへと変化するはずだ。筋トレという日課を遂行するため私は有効な筋トレメニューについてやモチベーションアップのための情報を調べ、筋トレ界隈の文化に染まるだろう。プロテインの味についてレビューしたりするかもしれない。同様にラーメンブログを始めるに当たって近所のラーメン店を調べ、他のラーメンブロガーの記事を参照したりする内に私はラーメンブログ界隈の文化に染まるだろう。「5分程度で着丼。麺リフトです」とか画像付きで当然のように記述するかもしれない。毎日こなした筋トレ内容やプロテインの味を書いたりする私と、毎日食ったラーメンのスープの味や麺の固さと店の雰囲気をレビューする私、二人は同一の人格だと言えるだろうか? こいつら絶対話合わないだろうなとしか思えない。
他人にとっては尚更だろう。毎日ジムに来てスクワットしていくマッチョと、毎日ラーメン屋に来て写真撮っていくデブ。同じコミュニケーションが発生するわけもない。違う扱いをされ、違う自己認識を得て、違う行動をとり、やがては違う寿命で死ぬはずだ。
そう、他人にとって、ということが重要である。他人がいなければ“自分”という概念も必要ない。自と他を分ける、つまり“この個体”が他人にとって“私という人間”として認識されているのは、私とラベリングされた人間の存在によってである。そしてその中身は、環境や習慣、外部からの入力によっていくらでも変化し得るものなのだ。逆説的だがロブスターの味噌煮スパイクも、ハンバーガースパイクも、他人からしてみればどちらもスパイクなのである。

奥様である環と、先輩かとるのグモルクは繰り返す二十日の間で、毎回ゲームをしている。それは盤上に黒と赤の駒が並び、稼いだポイントを競うもの。実はそれは、我々がしているこの夢幻廻廊というゲームと同じ内容だ。いっぷをする娘たちが駒。駒を使い、毎ターンごとに“たろ”の調教ポイントを稼ぐ。周回が終わればまた初めからやり直し。ゲームの外では“私”が、ゲームの中では環とグモルクが、このゲームのプレイヤーなのである。
環とグモルクは折に触れて“この世界”の仕組みを喋る。

「お前だけが“たろ”ではないし、本質的に、お前が“たろ”というわけではない」
「え……?」
「“たろ”というのは、“かとる”の名前だ。“かとる”というのは、役割だ」
グモルクさんは、盤上に注意深く視線を向けながら、僕のほうはまるで意識していない様子で続けました。
「つまりお前もまた“たろ”だが、ずーっと“たろ”という存在がある。お前の前も……」
グモルクさんはそういうと、盤から顔を離して、手の中のコインを数えました。
「おそらくは、後も」
「後……」
「不思議がることじゃないだろう。お屋敷は永遠だ。お前が永遠ではいられないなら、お前の後にも“たろ”がある」
「だけど、それは悲しいことではないのよ?」
奥様が優しい声でおっしゃいました。
「永遠に続く個人がなくとも、永遠に続く役割があるならば……」
「生き物が何故、子を残すのか。それは、遺伝子という形で、自分を永遠に残すためだ」
「遺伝子……」
「そうすれば、永遠であれる。だが、子は自分ではない。なら、自分とは、なんだ?」
「自分……自分は……」
僕は、考えた事もない問いかけに、うつむいて、考え込んでしまいました。
僕には、記憶がありません。思い出も。だけど、間違いなくここにいます。
僕って、なんなのでしょう?
ブラックボックスだよ」

“たろ”は名前も過去もすべてを忘れた状態でお屋敷に居る。“たろ”という名前も奥様に与えられたものだ。今や彼の存在を他者から「それ」だと認識させるものは、“たろ”という与えられた名前と“かとる”という与えられた役割に従おうと起こす行動、その主体者としての規定、それだけ。
名前を与えられる前、語り部である彼は記憶を失くした己の状態について「そう、僕は感覚器の集合体――ただそれだけの存在に過ぎませんでした」と述べる。
誰でもない、まっさらな、主観と肉体だけの存在。

人という容器には、様々な色、様々な形、様々な意味が、口いっぱいに溢れんばかりに詰め込まれ、それらの色や形や意味が相互に作用し、関連し合い、それで人が人として成り立っているはずなのです。
自分のなかにあったそうした雑多なものを、僕はどこで落としてきてしまったのでしょう?
それさえも思い出せません。
多様な部品から、精緻に組み上げられて自分という機械はあったはずなのです。今や僕は、外装だけの空っぽな存在になってしまいました。
僕から失われたものたち……これまで生きてきた日々に、見たこと……、聞いたこと……、話したこと……、考えたこと……、感じたこと……、思ったこと……、印されたこと……、刻まれたこと……、塗布されたこと……、長い年月を費やして、蓄積された事象の絡まり合い、価値観、知識、思考、感情、経験、それらの複雑な連関、そういった過去の喪失は、その継続としての未来の喪失でもあるのでしょう。
人は過去を寄る辺として、現在を生きて行くものだと思います。未だ生きられない時が、選ばれる前のその時が、きっと未来なのです。
僕は過去を失ったと同時に、自らがこれから向かうべき未来も失ってしまったと言えるのです。

思えば人はどれだけ多くの中身を“自分”という箱に詰め込まれていることだろう。そして他人にとって、ある人間を“それ”として規定付けるのに必要なものの、どれほど少ないことか。
ワイヤードという他人とつながるための空間に必要なものは何か、という問いにlainは「意思と存在。あとはただのデータ」と答えた。私という存在とそれに宿る主観、あとはただのデータ…しかしそのデータこそが名前であり、属性であり、習慣であり、過去であり、つまり“他者にとって読み取れる自分”の全てなのだ。
主観的な自分と客観的な自分、その絶対的で唯一の違いとは主観の有無だ。他者からは類推するしかないその主観の在り様を客観的に“人格”と規定する。ならば人格とはつまり“どういうもの”なのか。

「行動パターンということね」
奥様は、ゲーム盤の上に、静かにコインを置きました。
「つまり、なにをされたらなにを考え、なにをするのか、そういう行動パターンが、人格ということよ」
僕が何かを言うより早く、グモルクさんが手を叩きました。
「あ……そうきますか」
「定石でしょ?」
僕は、お二人のゲームを楽しむ会話に、いいたい言葉を忘れてしまい、口をつぐみました。
「環境に対するリアクションパターン。人格とは、つまりはそういうものなの」
盤上から目を離さないままで、奥様はお続けになりました。
「パターン……でも、だとしたら……自分と同じ、その、答えを返す人がいたら……それは、それはもしかして……」
「同じ人格なのよ。少なくとも、客観的には」
「我、思わずとも我あり」
「…………」
「そして、そのパターンは、環境によって作り上げることができる」
「環境……」
「そう。環境」
首はゲーム盤を向いたままでしたが、奥様の目が、僕に笑いかけました。
「妾の、名前の一文字」
「そして環境を閉鎖すれば、入力パターンが減り、なお人格コピーを作り上げることは容易になる。それが、このお屋敷さ」

“たろ”という名前を与え、“かとる”という役割を与え、しなければならない行動、とらなければならない態度がその存在に規定される。そこから、それに沿おうとする意思が規定される。従順にせよ抵抗にせよ、与えられた役割がその思考を縛る。
「名前とは、ポジション、と同じだ。名前を与えると、それに似合う振る舞いが身につく」とグモルクは言う。
いきなり『“メイド”の“麻耶”』をやれと言われて、出来るかどうか。無理だと思うと答える“たろ”に、グモルクはできるさ、と断言した。

「メイドっていうのは、特別な才能が必要な役割じゃない。鳥みたいに空を飛ばなきゃいけないわけじゃないからな。
その名で呼ばれ、その仕事を理解できれば、誰にでもできるようになるんだ。
周りがみんなで、そいつの役割を決め付けて押し付ける。そうしているうちに、誰しもその役割を演じるようになるんだ。それが、このお屋敷の仕組みなんだよ」

このお屋敷では、役割ではない者はない。
記憶のない“たろ”は知らないが、前のループでいなくなったはずの構成員が必ず次のループでは復活している。何故か?
それは誰でもない主人公が『“かとる”の“たろ”』という役割を与えられてそれになったように、『“長女”の“薫子”』も『“次女”の“麗華”』等も役割だったからだ。
そしてそれは、『“奥様”の“環”』すらも例外ではない。
“かとる”は人間だが、“メイド”も人間ではないのだと麻耶は言う。メイドは家具だ。お屋敷という環境を整えるための、ほうきやちりとり、ナベやフライパンの一部だと。
ではお嬢様たちは? と尋ねる“たろ”に、麻耶は「あれは、奥様の調教対象兼調教道具」と答えた。

「このお屋敷は、お嬢さまを調教する、ただそれだけを目的に、作られているの……」
「…………」
あまりに荒唐無稽な話でした。
僕は、しばらく言葉を失ってしまいました。
「奥様は、お嬢さまのうち一人を、自分と同じ人格に作り上げるの。そのためには、このお屋敷でなければならず、姉妹は4人でなければならず、“かとる”、つまりペットが必要で、メイドは二人、いなくてはならないの。私たちは、一人の狂人が、自分と同じ人間をつくるためにしている調教の、道具に過ぎないのよ。鞭や、ロープのような」

前に、行列への並び方の国民性が一目でわかる画像、というのがバズっていた。中国の行列は前後の人間とゼロ距離に近いほど隙間が近いが、フィンランドは三人分くらいの広いスペースを空けて全員が等間隔に並んでいる。
その場の全員に同じ行動をとらせるもの。それは環境だ。気候や土地柄、慣習、言語、マナー、価値観…それらが組み合わさる事で、ほぼ全ての人間が同じ振る舞いをする空間が出来上がる。人類学を考慮すればそこには遺伝的、人種的な器質も関わってくるのかもしれないが、狼に育てられれば狼と意思疎通できるように育つ事例まである以上は些事と考えていいだろう。
今“私”という人格が出来るのには様々な条件があったはずだ。二度と再現不可能な環境からの入力を繰り返して、その記憶と経験に基づいた判断基準や価値観を有している以上、今の“私”と全く同じ人格を作成するのは無理だ。だがそれは絶対的な意味合いでの話に過ぎない。
それほど厳密に同一である必要は無いのだ。ただ何かしなければならない状況があった時に、同じ行動をとるように出来ればいい。表面に出てくる行動が同じならば、同じ働きをする人間だと言うことが出来る。もし私にフィンランドという環境を与えれば、私は同じ並び方をするだろう。フィンランド国内にも勿論多様な家庭があり、街があり、コミュニティがある。しかし同じ並び方をするようになるには、フィンランド国内という条件設定があれば足りるのだ。

コミュニケーションとは本質的には「分からない」ものだと環は言う。
「あお」と言われてどんな色だと思うかと尋ねられ、“たろ”はお空の色だと答えた。しかし海の色や紫陽花の色、「あお」にも色々ある。言葉にした時点で、本当に表現したい心からは外れてしまう。クオリアを人と共有することは出来ない。
その上で、何かと何か、誰かと誰か、何かと誰か…二つのものが触れ合うということは、イニシアティブ(主導権)の奪い合いでもあるのだと説く。

「主従関係が定まらないと、言葉は平行線を辿ってしまうの。だから、事前に主従関係を結ぶ必要があるのよ。主導権を握る側が話を進める。そうでない側は、主導権を持つ側が求めている言葉を捜す。これは、円滑なコミュニケーションの形なの。
煩わしい主導権争いは、会話が始まる前に終わらせてしまうべきなのよ。つまり、そういう環境を設定することで、スムーズな会話があるわけね。
なにより、相手がなにを望んでいるか、それを探ることが、相手を理解することに近づいていくのよ。相手が、なんと言って欲しいのか。それを察するということね。
そして、理解してもらうためには、それを察させる環境を作ること。または、察することがなくとも、その言葉しか言わないよう、人格面から選択肢を囲い込むこと」

マックでハンバーガーを買ってこいと言われて買えない人間はあまり居ないだろう。ホストであるマックが主、客の我々が従。「いらっしゃいませ、ご注文をどうぞ」と言われたらメニューの中から選ぶ。代金を言われて払う。受け取って退店する。とるべき行動が完全にホスト側から選択肢として囲い込まれているため、“人として”コミュニケーションする必要がない。“定員”と“客”という役割でコミュニケーションを完結させることができる。

「心と心が通じ合ったときと、同じことが減少として起こり続けるのならば、互いの心に何の交流が一切なかったとしても、それは……心と心の交流がなされているのと、なんの違いもない。このお屋敷での生活は、現象面を整えるものなのよ」
「現象……?」
「現実、と言ってもいいわね。
たとえば、この世界に万有引力なんかなかったとしても……別の力によって、同じ現象が起こり続けるのであれば。万有引力の法則は、いつまでも成り立ち続けるでしょう」
「万有……?」
「“たろ”が掃除しようと、麻耶が掃除しようと、廊下が綺麗になるのなら、同じことということよ。妾が麻耶に掃除を命じていて、一方で、“たろ”が気を利かせて掃除をしていたとするわよね。妾にとっては、現象として廊下が綺麗になるならば、それはどちらの仕事であろうと等価なの。
たとえ、麻耶と妾の間には意思の疎通があって、“たろ”は、ただ暇つぶしの掃除だったとしても。廊下が綺麗になる、という現象そのものに、妾の意思は、関係ないものなのよ」

例えば昔、ほとんどの人間は空が回っているのであって、地面は動いていないと思っていた。いや地面が動いてんだよと言ったガリレオガリレイはでたらめを言う異端者として裁判にかけられた。実際、現在は常識となった重力や地球の自転といった知識を備えず、朝が来て夜が来るのだという現象だけしか認識していない人間にとって、どちらの方が尤もらしいだろう。自分は一歩も動かずにいるのに、空は流れて陽が沈む。空が動いているのだと、そう結論して何の支障があっただろうか?
彼らは絶対お空が動いてるんだもんとムキになったのではない。主従で言えば我々が主だ、従たるお前が我々の面子を潰すようなコミュニケーションを発生させるなという社会的な圧力をかけたのである。地動説は“要らなかった”のだ。

「心と心が通じる会話が欲しいならば、心と心とを通じさせることが必要、ということでは、必ずしもないということね。心と心が通じ合った会話を先に設定して、その通りに返答するよう、条件付けをすれば……そうすれば、犬やカエルとでも、心と心が通じ合ったやりとりが、できるわ。妾が『わかりません』と答えて欲しい場所で『わかりません』と答え……『わかりました』と答えて欲しいところで、『わかりました』と答えられるなら、実際に理解している必要さえ、ないの」

「このお屋敷は、大きな……それは、空間においても時間においても、とても巨きな、心を通じさせる装置なのよ。四人の娘。二人のメイド。“かとる”が二匹。それが、お屋敷という装置」

麻耶は“たろ”をこのお屋敷から解放したいと願っている“メイド”である。メイドは便利な家具という役割だから、“環→お嬢様→たろ”という調教における階級の外側で、周囲の環境を整える備品に過ぎないと考えている。
しかしメイドも、その存在自体が周囲の者に対する調教の装置の一部だ。もう一人のメイドである志乃は、この屋敷のメイド二名の内、一人は片方の握力を少しだけ弱くされる決まりであることを“たろ”に明かす。僅かな左右差が感覚を崩し、そのメイドは物をしょっちゅう取り落としたり、何もないところで転んだりするようになる。

「このお屋敷に来てから習ったのだけれど、江戸時代には、怒られ侍ってのが、いたんだって。お殿様の子供を育てる時に、一緒に育てられる乳兄弟がいるのね。教育係も家来だから、若様を叩くことはできないでしょ? だから、同じミスをしたときに、その父兄弟が手ひどく虐められて、それで、若様はしていいことと、してはいけないことを学ぶんですって」

失敗ばかりでドジなメイド。それは偶々そうだったのではなく、“そう存在する”ことで役割を果たす装置の一部として用意されたものだ。
誰かが何かに影響を与えて、不可分のものとして作動する一個の装置。
だとすれば麻耶が“たろ”を解放したいと願う罪悪感すらも、そうあるべき“設定”なのだろう。ループしていると分かっているはずなのに、麻耶は“彼”がかつての彼女の罪そのものであるはずがない事を“認識”していなかった。

お屋敷には様々な仕掛けがある。歪んだ廊下であったり、壁に向かってまっすぐに伸びているだけの奇妙な階段であったり。その一つ一つが無意識下に働きかけて精神に微妙な影響を齎してくるという構造は、麻耶雄嵩の『蛍』や『夏と冬の共鳴曲』を彷彿とさせる。
まだ自意識が人間だった頃、壁に等間隔に並ぶランプのうち、一つだけが空の鳥かごであることに“たろ”は気付いた。どうしてだろう、と考えた。
しかしループが進むと、グモルクに言われるまで鳥かごの存在を気付かなくなる。そして気付いても、「どうしてだろう」とは考えなくなる。
お屋敷の多くのルールの内で、最も重要なものはこれだろう。
ある周回で不可解な事態に出くわして、疑問を持つ“たろ”に麻耶は言う。

「“なぜ”とか“どうして”とかいう感情は持つな。それは無意味なだけではなく、おまえ自身を不必要に苦しめるだけだ」

なぜ…。どうして…。目の前の現実に対して、そんな疑問を抱くことは、ここでは悪いことなのでしょうか? 麻耶さんの言葉を聞いていると、どうしてもそのようにしか理解できません。
つまり……、ぞっとする考えに、僕は至りました。
ここでは、僕は人間であることを求められていない。
そういうことではないのでしょうか…。

そして理不尽な“いっぷ”が終わった後、麗華と薫子が会話する。

「こんなことに……何の意味があると言うんだ」
不快感を隠そうともしない麗華お嬢様の声に、薫子お嬢さまの笑いが被さりました。
「何の意味ですって? お母様の決めたことをお忘れになったんですの? “なぜ”とか“どうして”という言葉は、このお屋敷には存在しない言葉なのですよ?」
それは……僕が麻耶さんから言いつけられた言葉と寸分違わぬものでした。
かとるである僕ならいざ知らず、お嬢様たちまで同じ言い付けを守っているということなのでしょうか?

虐げられる者が、「どうしてこんな目に」と思うのは自然なことだ。そして、その疑問を捨てなければ虐げられ続けることは出来ないだろう。
同様に、虐げる者がもし「何故自分はこんな事をしているのだろう」あるいは「こんな事をする権利が何故あるのだろう」と疑問を持てば、関係性はやはり続かずに崩壊する。
振り返れば“お屋敷”で人間だったのは、志乃ひとりだけだった。だから彼女を“たろ”はひとりぼっちだと感じ、そこにかつての自分を見て、共に手をとった。
「だけどどうして私は、私は不幸なの!」と叫ぶ志乃に、“たろ”は思う。
ああ、それを叫べるだけで、あなたは幸せなのに……。と。
人間である幸せ。それはおそらく“人間である”という事実そのものの幸せ。そしてそれだけの…。
滞在者の記憶を探って望むものを蘇らせる『惑星ソラリス』で、クリスとスナウトがした会話を思い出す。

「自分と向こうの生活との関連を感じるか」
「妙なことを聞くね。人生の意義も聞きたいか」
「真面目に答えてくれ」
「くだらん質問だ。人間、幸せな時は、哲学的な問題に興味を示さないものだよ。そんなことは死に際に考えるのさ」
「死がいつ来るかわからんから聞くんだ」
「急ぐことはない。そんな問題に興味を持たない人間が最も幸せな人間だよ」
「知識は不安を招くね。人間には秘密が必要なのかな。幸福の秘密。死の秘密。愛の秘密」
「それはあまり考えない方がいい。自分の死ぬ日を知ろうとするようなものだ。その日さえ知らなければ不死と同じさ」

分からないこと、分かろうとしないことは無いことと同じ。
繰り返す二十日間のうちで、毎ループ発生するイベントがある。お屋敷の皆で、“たろ”の誕生日を祝ってくれるのである。
しかし記憶のない“たろ”は、自分の誕生日など覚えているわけもなく、突然祝われても戸惑ってしまう。
それでも最後には納得して、“たろ”は“今日が自分の誕生日”であることを受け入れる。

そうでした。今日が、僕の誕生日です。
名前だって奥様が付けてくださったんですから。
若作りの人も、ふけている人もいるのに、年齢ってあります。だから、あれは意味がないんです。
年齢なんていうものは、名前と一緒で、人をグループ分けして、個人を特定するための記号にすぎません。
だったら、僕が僕であることは、奥様たち、お屋敷のみなさんが分かってくれているのです。特定してくれているのです。
お屋敷の皆さんが特定してくださるなら、僕は他のどこにもいかないのですから、それでいいのです。
ああ、つまりはそういうことなんだ…。

嬉しそうにお祝いしてくれる四人のお嬢様。彼女たちも客観を知り得ない素直な主観という名の駒であるから、誰しもがいつも、初めての“たろ”の誕生日を喜んでいる。奥様はただ、静かに穏やかな眼差しで見つめている。
幸せで穏やかな空間に、“たろ”は「誕生日って、いいものだな」と思う。何度ループしても。
従う方が、環境に適応する方が“幸福”になれると学習した時、行動パターンはそちら側へシフトしていく。環境によって人格が規定されていく。
何度もやり直す内に、彼は置かれた環境を、与えられたものを、心から幸福だと思える思考回路を自ずから獲得して身につけていくのだ。

その晩は、うれしさで泣きながら眠りました……。このお屋敷は、僕のための居場所。このお屋敷のかとるが、僕の位置。だれもが僕の存在を望んでくれる。それは、ある意味、僕がここの、この屋敷の、この世界の主人(あるじ)であるということ……。だから、嬉しくて泣くのです……。

承認欲求は人間の本能。碇シンジの「ここにいていいの?」という問いは、TV版では彼の主観という閉鎖された世界の中に存在する他者、全員からの祝福を“仮想”して自己救済を得た。そしてEOEでは、絶対領域であるはずの主観の中に存在する人類の“他者”たるレイに、同じ問いを投げかけ、返ってきた「(無言)」にシンジは発狂する。
幸福を諦めて孤立を受け入れるという結論を出したEOE。対してこの夢幻廻廊における幸福は、存在価値、存在理由、存在証明を全て他者に完全に紐づけ、共依存させ合うことで“幸福”と“永遠”を仮想する。

ところでレビューを見ていると、『環』になるお嬢様が『裕美子』でもあり得るし『奈菜香』でもあり得ると捉えているものを複数見かけた。
麻耶の「お嬢様のうち一人を同じ人格に」という台詞を「誰か一人」と解釈して、“たろ”の行動による分岐によって四人のうち誰かが次の『環』になる…という仕組みだと捉えたのだと思われるが、それだと「この世界で、繰り返されないのはただひとり、“たろ”、お前だけ」という奥様の台詞と矛盾する。“たろ”意外の駒は皆同じ行動を何度も繰り返すのだ。
つまり私は三女である『裕美子』しか『環』にはならないと解釈した。
おそらくそこを混乱させるのは奈菜香ルートの描写だろう。
整理して考えるのには、まずNPCのように同じ行動パターンを繰り返すお嬢様に対し、何度も微妙に違うループを繰り返して、しかも途中何度か死んでいる(環も「最初の“たろ”であるはずもないのだし……」と言っている)“たろ”がスペアと入れ替わりつつもその経験値を着実に蓄積していく、その累積システムが重要である。
『自分の前にも、おそらく後にも“たろ”がある』という事実を聞かされた後のタイミングに、下記のようなシーンがある。

でも……でもそうだとして……僕が忘れても、“たろ”のことを覚えている誰かって、だとしたら、誰なんでしょう……
誰が、僕の忘れている、“たろ”のことを覚えて……
「決まってる……」
誰が……
「覚えているじゃないか」
……………………。
…………。
……。
「君だよ」

グモルクが“私”に話しかけてきている場面でそのシークエンスは唐突に終わる。
つまりゲーム外のプレイヤーたる“私”は、毎回まっさらな主観でループを繰り返す“たろ”の外部記憶装置である。彼がすべてを忘れる代わりに、このゲームを起動させている“私”が代わりにその経験を覚えている。
だから黒の日の奈菜香ルートの最後、泣いている奈菜香はあのループの奈菜香だし、土の下に埋まっているのはあのループの“たろ”だ。奈菜香のものになったあの周回では、“たろ”は必ず一度死ぬのである。
そしてお嬢様たちもリセットされ、新しい“たろ”が補充され、奈菜香のものになって死んだあのループの経験を加算した上でまた新たなループが始まる。
何のためにそのループが必要だったのか?
それはグモルクが回想したように、彼が“グモルク”として永遠を維持する側に回る覚悟を決めるよう“調教”されるためである。
何度でも死ぬ“たろ”に対して、おそらくグモルクが死ぬのは奥様の交代の時だけだ。グモルクとして存在している時点で、彼は“全てを経験したたろ”だと考えていい。(志乃ルートは例外)
だから裕美子さまへの恭順も勿論真実として、それはそれとして、全てのルートの中で彼が永遠という装置に甘んじる引き金になったのは、奈菜香との思い出だったということである。このロリペドの虫野郎!(by麗華)
麗華さまは真っ当なお嬢様なので、色んな意味でいいのかそれで!?という葛藤から“たろ”をボコボコにした。そして詳しい因果は分からないまでもたろ≒グモルクだという事には何となく勘付いているので「わたしがなにか言うものでもないのだろうな、忠犬」と難しい胸の内を述べたわけである。
また、各お嬢様のルートが終わった時、「長女、クリア」等の環とグモルクの会話が発生しないのは赤の日でも黒の日でも、裕美子の時だけだ。自分のことだから“知っている”ためだろう。
奈菜香黒ルートのクリア時に「ノワール・フルポイント」だったのは、これで“永遠”が保たれる条件が揃ったという意味の言葉だと思う。
そして色んな意味で、

「よろしいのですか」
「なにが?」
「……いえ……」

という会話になるわけだ。基本的にこのゲームには与える愛しかなく、独占とか誰かを選ぶとかそういう普通の恋愛ゲー的な価値観は捨て去らなければならない。
それにグモルクはあくまで共犯者のような関係で、環のものではないからこそ“環”には“たろ”が必要になるのだろう。

あと分かりにくくしているのは最後の夜、奈菜香が「まるで奥様のようだった」というくだりだろうか。
あれは、奈菜香が本当は“奥様になれる素質”がある人格なのに、四女という役割は幼い子供でなければならないがために、奥様にはなれない…という悲しみを描写したシーンだと解釈した。
更に考えるともっと悲しい事実に気付く。
長女は赤の日で死ぬし、次女は赤の日で真っ当に働いているその後が見えるし、三女は環と交代するし、たろは短命だし、ループからの“外れ方”がある。しかし奈菜香は赤の日でも、黒の日でも“たろ”と共に出て行くことはない。
加えて、病状の悪い薫子を見送った際の、下記の会話。

「……良くないようだな」
コーヒーの湯気を顔に当てながら、最初に口を開いたのは麗華お嬢様でした。
「いつものことじゃん」
「でも、あんなにひどいことなんて、珍しいわ」
「……そろそろ、考えないといけないのかもしれないわね」
奥様の言葉に、びくっ、と奈菜香さまが体を震わせました。
「あ、あのねあのね、お母さま。奈菜香ね、今年の身体測定でも全然背が伸びてないんだぁ。残念だなあ」
「まあ、そうなの?」
「それでね、奈菜香ぁ……」
カタン
奈菜香お嬢様の言葉をさえぎるように、麗華お嬢様が食後のコーヒーを飲みきると、カップをソーサーへ、少し手荒にお戻しになりました。
「ごちそうさま。私は課題があるので、これで失礼する」
声にも、どこか嫌悪感に似た苛立たしさが、にじんでいました。
奈菜香さまは何かを言いかけ、奥様が頷いたのを見て言葉を飲み込みました。

四女は子供であることが役割の条件で、お屋敷から自主的に出て行くことが無いのなら、もし成長してしまった時はどうループから外れるのか?
“たろ”を逃がす時に言った、「殺されるって言ってるのにーっ」という言葉を嫌な方向に解釈できなくもない。
奈菜香の部屋だけ現代風なことを、「当たり前じゃん」と言った理由が、「いつか外に出されるため」と解釈できればまだ希望はあるが…。

とにかく、繰り返すループの中で“たろ”は一度奈菜香の忠犬を貫いて死んだ。
“天国”のたろが全てのたろの記憶を外付けHDDの私から読み込んで所有していたように、グモルクもプレイヤー側に回った段階で、いつかすべてのお嬢様たちとの記憶を取り戻す時があったんだと思う。その上で、お屋敷の永遠を肯定する契機になった「永遠を願った瞬間」が、奈菜香さまと安らかに眠るあのひとときだったと思うと…愛だなって…。
グモルクさんがちっともそんな素振りを見せないのが尚更。見せるのは一度だけ、振り返れば象徴的な、裕美子さまと奈菜香さまの二人で“たろ”に会いに来た日の直後。

「三女、黒、自由1――
四女、黒、加点1――」
「…………」
「…………バーカ」
「なんだよ……バカって……」
「あんなガキを……自分をあんな目に合わしたヤツをちょっと泣いて『好き』って言われただけで『ボクも好きです』なんて言うヤツを――バカって言わずに、なんて言うんだよ……」
仮面の奥から、きひひひ、と気味の悪い笑い声が聞こえました。
「でも、バカなのは、オマエが悪いんじゃない。バカになるように躾けられちまってるんだ……」
「躾け……?」
グモルクは、いい意味でその言葉を言ってるんじゃないということだけは、その口調から、わかりました。
馬鹿にしたような口調。
それも、僕を馬鹿にしてるんじゃなく、別の何かを笑ってるみたいな……。

絆されちゃったんだな~という感じ。ここのグモルク→奈菜香の関係性だけはハードボイルドな匂いを感じなくもない。
そして本人は環のゲームの相手になりつつ、犬として裕美子を逆調教し、ネバーランドでしか生きられないティンカーベルのためにそこを守っていくと。
まあペットにとって全員ご主人さまはご主人さまだけど、家族はそれぞれ可愛がり方も距離感も違うものだからな。

寂しくて、誰かと一緒にいたいのに、その誰かと、どうしても仲良くできないのです。
そんなところは、そっくりです。顔は似ていなくても、心がそっくり。
ああ、家族って、そういうものなのでしょう。

「……そうですね。神は、あまりに人間を、自分に似せてしまいすぎました。だから人間は、神様の孤独を癒しては、くれないのでしょうね。同じように過つほどに、似すぎてしまっているから。妾のように……」
「僕は違います」

人類皆家族。実際していることをゲーム内の中だけで完結させて考えればこんな虚しいゲームは無いが、私は全てのループを越えて“奥様”を癒すペットとして寄り添った『天国』のラストに素直に感動した。
寓話的に考えれば、“お屋敷”はこの世界の鏡像だ。誰もが役割を演じなければ円滑なコミュニケーションができない。役割を捨てて個としてのコミュニケーションを図れば、永遠ではなくなる。そして役割ではない“自分”など、本当は誰の前にも現れ得ない。
この世界とお屋敷の違いは“環”という人格の有無だ。『環境』について語った際に、己の名前の一文字だと“彼女”は言った。
時間がループしていると初めて知った時、“たろ”は「だれがさせているの? やっぱり神様のしわざなの?」とグモルクに尋ね、グモルクは「いいや、環さ。あの女がやってる」と答える。“たろ”はそれを聞いて、『なあんだ、じゃあ神様がしてるのと同じことじゃないか……。』と考えた。
現実でも、“環境”に人格を想定した概念こそが“神様”と呼ばれるものではないか?
“奥様”の言葉を、そのまま“神様”の言葉と考えて彼女の言葉を見ればそれが分かる。

「このお屋敷では、あなたの理解できないことがこれから、たびたび起こるかもしれないわ……だけど、そんなときは、一人で苦しむことは、ないの……お屋敷の作る永遠は、時に残酷に見えることもあるでしょう。でもね、“たろ”……このお屋敷にあるものは、あなたを傷つけたとしても、必ず最後には、幸せをくれるものなの。幸せのほかに、このお屋敷には、なにもないのだから」
「はい……」
奥様の言い回しはとても難しくて、意味は半分くらいしか分かりませんでした。つまり『いろいろつらいことはあるけれど、ガマンすれば必ず幸せになれるんだ』って、そういう意味だと、僕は思いました。
たぶん、そういうことだと思います……。
「痛みも悲しみも、死の辛さすらも……。全てに、幸せは宿るもの。“たろ”は、妾を信じるかえ?」
「もちろんでございます。奥様」
それは、今日奥様の下さったお言葉の中で、一番簡単な問いかけでした。
「ならば、なにも疑うことはないわ。あなたは、幸せになれる……」
「はい、奥様……」
「でも……」
奥様は、うなずいた僕の頭を撫でながら、けだるそうに遠くを眺めました。
「でも、そうね」
そっ、と奥様の手が僕の頬を撫でます。
「妾は果たして、妾を信じられるのかしら?」
「……奥様?」

敬虔な信者は神の愛を信じ、そしてこの世の全ての苦難を恩寵に変える。『苦難に耐えている者は幸せだ、いつか認められた時に人生の王者となるであろう』というのはliliumの歌詞だったと思う。
「痛みも、苦しみも、死でさえも。それが幸せであるならば。幸せだと、ラベリングされていれば、人は誰も拒むことはできない」とは“奥様”の言である。
そして奥様は「勝負に勝つために必要なことは何か」と問いかけて、こう説く。

「どうすれば勝てるのかを、考えること」
「ルールを読むってことですか?」
「……ちょっと違うわ。相手に負けないって、ことなのよ」
「違う意味なんですか?」
「少しだけね。考えが進んでいるの。
相手が何をしてくるのか、それを考えないで、ただ自分のことだけを考えていたら、ゲームには勝てないのよ。
つまり、相手がなにをしたいのか。どうすることが良いと、相手が考えているのか。まず大切なのは、それを知ることなの」
「難しいですね」
「簡単なことよ」
奥様は、まるで夢想するみたいに、目を閉じられました。
「愛すればいい」
「愛……?」
「そう。愛。 相手がなにをして欲しがっているか。相手が何をしたがっているか。それを、常に考えること。それはつまり、愛なのよ」
「愛……」
「恋や憧れではダメ。それは、自分がどうしてほしいかを、相手というスクリーンに投げ出しているだけだわ。勝負で勝つためにはね、まずは相手を愛することなの」

永劫回帰の概念でニーチェは、もし全く同じことを何度も繰り返すのだとしても、それでもその生を肯定できる人間のことを『超人』と定義した。
人あらざる者、という意味では下方に行こうと同じことだろう。
相手が何を必要としているのか。それを常に考えるということは、自分を自分だけのものにしないということだ。
人間は、我欲を捨てることがとても難しい。自分が自分のものであることを捨て去ることは。
「このお屋敷には、妾にはお前が必要なの」と言う奥様に“たろ”は「はい、奥様」と答える。
「お前は、妾が必要?」と言う奥様に、“たろ”は「はい、奥様」と答える。そして奥様は、「なら、よろしい」と言う。
こんな簡単なコミュニケーションだけで幸せになれるのに、そこに辿り着くのは、そこに居続けるのは、とてもとても困難なことなのだ。
つまりそれは愛し続けるということだ。そして愛され続けること。
ゲームのラスト、光降り注ぐ庭で、ふざけてお嬢様たちから追いかけられた“たろ”はお庭の中心で紅茶を嗜んでいた“奥様”の傍に逃げ込み庇ってもらう。
ありがとうございます奥様、と礼を言う“たろ”の頭を撫で、「気にしないでいいのよ」と笑った“奥様”がこう言って、ゲームは終わる。
「あなたは、このお屋敷にとってなくてはならない存在なのだから」

神様が「あなたは、この世界になくてはならない存在だ」と言ってくれることを、祝福と呼ばずしてなんと呼ぶだろう。
現実という個の世界では自分の存在価値を自分で決めなければならない。主観は環境に無限に操作される、しかしそこに神が姿をとって現れることは無いからである。なぜこの居場所がこうであるのか、どうして私は私なのか、言葉では誰も理由など語り得ない。個はその集合を語り得ず、語りえぬことに関しては沈黙せねばならないのだ。
しかし、夢を見ることはできる。グモルクは言う、「幸福も絶望も、全ては主観の中にしか存在しえない」と。人は主観から出られない。それは人と人を隔てる壁にもなる。だが閉じているからこそ、全てを変えることも出来るだろう。人の認識できるものはとても少なく、見える世界はとても狭くてささやかなものなのだから。

奥様の傍に侍って、彼女を孤独でなくした結末に、私は「いいことしたなあ」という気持ちになった。“たろ”の存在が、それを育てたことが、環という存在を幸せにしている。それは“たろ”自身が幸せになったかどうかという事よりも余程重要で、確かなことだと思った。そう思えることそのものが、既に彼にとっては幸福なのだ。

天国

ああああ疲れたァァァん! ちゃんと整理されてるかわからんけどいいわこれで。引用だらけで申し訳ない。どういう順番で開示すれば一番わかりやすいんだ…!?って超頭使ったわ。ちょっとは情報整理能力が向上しただろうか。グラスノスチ!(言いたいだけ)
もう小難しい話は済んだのでここからはお屋敷の皆さんそれぞれについての感想です。

薫子さま&麻耶

お嬢さまたちの中で本当のサディストは薫子さまだけだったな。相手を人間だと理解した上でやりすぎなほどやりすぎる薫子さま、わたし大好きになってしまいました。
いやくつしたは関係ないんだ。関係ないって言ってるだろ!
なんていうか狡猾さのある悪人とは真逆の人なんですよ。ただただ純粋に邪悪であるというだけで。麻耶さんへの容赦ない「ばーか! ばーか!」とか最高だったな。この世の鬼畜と名のつく攻めには全員お手本にしてほしいサドっぷりだった。
たろが色々な目に遭うのは、そういう“お役目”なんで「大変だな〜」という感じなんですけど、メイドたちへのおしおきは偶発的なだけに“いじめ”って感じで生々しいんですよね。勿論機能的にメイドの方が同じ女として想像しやすいっていうのもありますが。
だから第三者にオススメできないなっていうのは“たろ”への仕打ちよりも、メイドへの仕打ちの部分でそう思いました。
私がひどすぎワロタっつって色んな描写を全部笑って消化出来てしまえたのは、実際こういう扱いをされてしまう事案が世の中にはあるって事を陰惨な事件記録とかで知った上で、これはあくまでフィクションだっていう安心感があったからこそかもしれません。嫌いな食べ物も一度食って味を覚えておくとその内食べられるようになるらしいですが、第三者として飲み込んだことがあるからこそすんなり飲み込めただけで、人によっては吐き気を催したりしてしまうかもしれない。ところで『ブラッドハーレーの馬車』という鬼畜作品があるんですが、私がその漫画で一番面白かったのは作品自体よりもamazonレビューで星1つをつけたレビューの中にある精神的ショックを受けた人たちの感想を読むことです(ド畜生)
まあそれは置いといて、「そこまでする?」という鬼畜の所業が全く緩まない調教ぶりに次第に「パネェ」という気持ちが湧き、『むしとり』って何だろう…→ちょwwwアンタそんな事までさせとったんかwww等の感心を経て、やがて「さすが薫子さまッ! 俺たちに出来ないことをやってのけるッ! そこにシビれる憧れるゥ!」という尊敬の気持ちが生まれてくるんですよ。
一番好きなシーンは、嫌がる志乃を仕置きとして"かとる"に堕として"たろ"に犯させる鬼畜ショーを、ソファーに寛いでブランデーグラスを揺らしながら眺めて「ふぅ〜」って悦ってたシーンです。カリスマや! 器が違いますわ!
それでいて言い訳しないというか、過去に刺されたことも全然怒っていないどころか当然だと許すし、基本はとても穏やかな、心の大きなお方で…。墓前で涙にくれる奈菜香さまに知らず追い打ちをかけてしまう裕美子に対し、「そっとしておきましょう」と悲し気に気遣えるその静かな優しさ。ああ薫子さま。でも何回交代しても毎回やり過ぎて刺されてるんだと思うとめっちゃ面白いな。ペットに刺されるのは飼い主の甲斐性的な?
役割交代エンドも、とんでもない目に遭って弱々しい「“たろ”さん……」という声を上げつつも、やめてくださいとか助けてとか、そういう慈悲を乞う発言は全く無かったところが好印象でした。そんなだから結末もなんか「楽しそうだな」って思っちゃった。
ところであの黒の日の最後、“薫子”でなくなった彼女を“少女”と形容した記述に「ん?」と思ったんですが、黒の日で「マイナス2機」ということは赤の日の薫子さまは既にお亡くなりになっていて、黒の日の薫子さまは補充された二代目薫子さまだったんですよね。だから“長女”としての役割だったからこそ年上のお姉さんに見えていただけで、実年齢は“たろ”とそう変わらないか年下だった可能性すらある。寝顔もいつも“あどけない”お方だし。こぐにっしょん(認識)が牛耳られたお屋敷ですから。うーんそれはそれでアリだな。まあ役割で重要なのは肉体ではなく人格なので、些細なことなんですけどね。
色々と突き抜けてるし、堂々としてるし、精神的には一番強そうだ。麻耶さんが惚れちゃうのも分かるわー。麻耶さんすぐ刺すからな。(前科二犯)お屋敷で一番メンヘラなのは実は麻耶さんなんだと思う。まあ境遇のハードさを考えれば仕方がないのですが…。
ループ中に“たろ”の入れ替わりがあることを把握しているはずなのに、そこはリセットされてしまうというか、それこそ麻耶さん自身の“こぐにっしょん”が実はずっとダウンしたままだったということなんでしょう。最初の麻耶がそういう経緯を辿った人だったのかな。そして魂に刻まれたその罪悪感ごと、役割としてダビングされてしまう…。損な役割ですわ。
でも麻耶さんが薫子さまにお仕置きされてるシーンを思い出すと、胸が痛むのかドキドキしてるのか判別がつかなくなる。マジ泣きの声の演技が最高でした。麻耶さんもホントに好き。困った顔が可愛かった。
声といえば、ゲームについてるサントラの中に他ゲームの主題歌であるはずの薫子さま役の人が歌う曲が入っているのは、薫子さまに心酔してしまった家畜向けへの製作陣よりのお慈悲だと思いました。かおるこさまだいすき! かおるこさまありがとうございます!

麗華&奈菜香

人間力に定評のある麗華兄貴』という下馬評はまことであった。麗華さまステキすぎる…。黒の日は悲しそうな表情が多くてこちらも悲しかったですが、同時に萌えました。百合子のくだりは“たろ”のやばすぎるドン引き進化で笑ってしまった。(笑ってはいけない)
赤の日で「マイナス一機」と言っていたので、赤の日の麗華さまは今頃真っ当に灰色の社会で生きておられることでしょう。だから黒の日の麗華さまが“いっぷ”に葛藤していたのは、グモルクが言ってた「お前が麻耶にいきなりなって、最初はうまくできなくても皆『ああ最初は麻耶でも無理なんだ』と思う。でも同じ仕事を押し付けられていくうちに自然と出来るようになっていく」の慣れ始めの段階だったということなんでしょうね。(勿論本人に自覚は無いだろうけど)
赤の日は兄貴系攻め、黒の日は強気系受けという感じで一粒で二度おいしい萌えキャラでした。
“たろ”(≒グモルク)以外に視点者になる場面があるのは麗華さまだけです。逃げ出す時に、驚いた麻耶の珍しい表情を見て「最後に面白いものが見られた。」って述懐するシーンが好き。麗華さまカッケェ…。
奈菜香ルートで、奈菜香と麻耶は麗華が“たろ”を気に入っているから怒るのだと言い、“たろ”は麗華が奈菜香を好きだから怒るのだと言うシーンがありましたが、どっちでもあるのだと思います。奈菜香は大事な妹だし、食事中からかう様子なんかを見てると内心ほんとに可愛く思ってるのでしょう。そして“たろ”を気に入ってるのも本当。
で、命令されたからってその年の女に手出すとかこの変態ロリペド豚めという罵倒も本心だし、鞭を振るう相手がいなけりゃ調教専門かとるの己の自我をどうすればいいんだという無意識の苦悩もあるし、その上でよりによって奈菜香かよとか、もうお屋敷を出て行く気を完全に失くしてしまったのかとか、とにかく「いいのかそれで!?」という諸々の葛藤を引き受ける役割を担っていから、麗華さまはもう一人の主人公、というような印象でした。
そして上の方で結構奈菜香さまについては書いてしまいましたが、実はある意味メインヒロイン的な。
でも正直わかるわー。性的なことを抜きにして、まっすぐ慕ってもらえて、まっすぐ慕う気持ちを受け入れてもらえたのは“たろ”にとって本当に幸せだったんだろうなと思う。「うれしいなあ。奈菜香、うれしいなあ」って台詞が一番好きです。こんな風に自分の好意を喜ばれちゃったらもうね。奈菜香さまのものになりますってなっても仕方がないかな。
“たろ”がすぐ勃起してしまうのは薬の効果や洗脳の効果が多大にあるので本当はシャレにならないというか、哀れむべき体質なんですが、言いたくても言えない好きだという気持ちが体の状態で通じることが叶った場面では「ああ、こういう場合のためなんだなあ」と何だか感動してしまった。(感心?)
永遠に“奈菜香”の前に“たろ”は現れて、そして何度も繰り返す中の何回かは彼女に一生を捧げる忠犬になれることを、そのループが訪れることを、彼は永遠に望み続けているのだろうか。奈菜香のループの外れ方も前述の通り不穏だしな。うーん儚い。永遠なのにね。

裕美子&志乃

裕美子さまはギャグキャラだと思う。
いや赤の日はまだ調教途中だったから、ただの天使でおられましたけど(それでも炎天下の散歩と生ゴミ飯はかました模様)
一番笑ったのは最終段階に辿り着いて、完璧な“かとる”になった“たろ”が「本当にこの人は、僕のごはんに涎を入れるのが好きなんです。」って言ってたところ。やっぱお前の趣味なんじゃん!!“かとる”のスタンダードじゃないんじゃん!!!って超笑った。裕美子さまは変態。
でも赤の日から突然フルスロットルで炎天下の全裸散歩を繰り出してきたのは、主人公がいつも出くわすグモルクとの散歩で着実に“裕美子”として育成された結果だからな…。そしてグモルクは元たろなわけだから、何と言うかオーライだね。
しかし基本的に悪気がない善意の塊だからこそ、調教部屋での「“たろ”と志乃をセックスさせろ」→「たろが可哀想……」という思わずの反応のクソさに謎の興奮を覚えてしまった。キミ志乃はちゃんと人間に見えてんだよね!? 風呂場で「あれは牛です」とか言ってたしなんか妙に志乃に厳しいな彼女は。
調教部屋での悪夢の後日だというのに『“たろ”とは仲良しですものね』とか言ったらしい裕美子さまに「ふざけんな! あんなことされて仲良くなるわけないでしょ! 澄ました顔であのブタ女!」って“たろ”に憤る志乃さんの場面すごい笑った。善意100%の発言と分かるだけにシュールすぎる。ブタ女ですわ…(春の陽射しがそこに凝固し少女の形になったかのような高貴でお優しい裕美子さま)
そういえば裕美子は薫子さまの離れに“たろ”が近づくのを「とられたくない」と嫌がってもいたが、奥様の薫子さまへの仕打ちがエグかったのとやはり関係あるのだろうか。
赤の日で「そう、今も覚えている……」と“たろ”の耳元で裕美子の行動を予言し、志乃の登場に爆笑していた奥様はここ一番の狂気を孕んだご様子で描かれていましたが、振り返って考えてみれば当然ですよね。あの時指折り数えていたのはおそらく“この”裕美子の現在の周回、調教の進み具合…そしてそれを数えるということはつまり「あとどれくらいで“環”が入れ替わるのか」を数えることであるわけで、個体としての自分の死ぬまでの時間を指折り数えることと同義なわけですから、そりゃあ正気では無理な勘定ですわ。
しかしグモルクとのゲームでいつも言ってる「裕美子さんで稼げたポイントは予想外だったわ」って、それは「あんなことしたっけ?(すっとぼけ)」って意味なの? それとも「あれってそんなにキツかったのかしら?(すっとぼけ)」って意味なの? お茶目か?
そして志乃さん。よく考えて見ると、前回の記事書いた時っていうのは赤の日裕美子さまルートを終えた直後のことだったんです。何故そこでちょっとダレたのかを自己分析すると、赤三週目でだいぶ既出のやりとりが増えてきたのと、何よりそのルートでの志乃さんが初めて“理由のない暴力を与えてくる人”として登場したからだったんだなと。
私はわりと辛い話とかバッドエンドとか好きな性質なんですが、ただ胸糞話は地雷なんですよね。ここのラインが微妙なところなのでなりふり構わず見る訳ではないんですが。
なんというか辛い状況があったとして、そこに至る過程に理不尽さがあると胸糞なんですよ。色んなどうしようもない因果とか、宿業とか、そういうのが重なり合って陥るどん底の状況はアア~って一緒に落ち込むことが出来るんですが、外部から明確な“悪人”が出てきて、しかもそいつが大した因縁もなく、ただ人を不幸にさせるだけさせて罰という罰も受けずに退場する、みたいなのは「ア゛ァアア!!?」って怒りが沸くので駄目です。
ダンサーインザダークとかあらすじ聞いただけで「え、金盗んだ奴が死ねば良くね?」とキレるし隣の家の少女とか「え、その家族が全員死ねば良くね?」とキレるので絶対読みたくないです。悲しみたいんであって怒りたくはないんですよ(注文の多い下衆)
で、“いっぷする役割”と“いっぷされる役割”という大義名分のもとやってきた所に、なんか明らかに精神が不安定な志乃さんが役割の外から虐げてきたので、えぇ…こういうパターンもあるの…こえーよこの人…これからこういうのも増えていくのかな…何度やってもお屋敷戻っちゃうし…ハァ…みたいな気持ちになってモチベーションがちょっと下がっていたわけです。
でも黒の日行ったら、「そりゃ怒るわ」と納得の仕打ちを志乃さんが受けまくり、“たろ”が怒られるだけのことをしているのに自覚がないという逆転現象が起こって、伏せられて理不尽だった部分がどんどんクリアになっていった。というより、長々書いた通り全部システマチックに理由が用意されていて、むしろこのゲームは“どうしてこんな目に”という視点を失くすことが最重要目標みたいな話だったのでした。
繰り返しになりますが攻め手側も“どうして”と問うてはいけない、というのは重要なルールだなと。胸糞になる悪人へのキレ方っていうのは大概「どうしてテメェにそんな権利があんだよ!!?」というようなものですからね。
志乃さんも最終的に大好きになりました。ていうかかわいそすぎる…幸せにしてあげたいキャラNo.1だよ…。でも、同情しないで!と必死に尊厳を保とうとする、その崩れ落ちる寸前のガラスのようなプライドが志乃さんの美点でもある。
「私中学までは成績良かったんです!」って何度も言うところとか、なんかすごいリアルにやるせなかった。“志乃”のポジションつらすぎだよな。でも抜け出せないんだよな。
『そう。志乃さんは悪くないのです。でも、悪くないだけでは、だれも守ってくれない。』という現実世界の灰色さが胸につきささる。
せめてお屋敷の安寧が、たろの言う通り彼女の幸福になってしまったのならまだ…。あるいは、“たろ”が完璧なかとるになったことが、志乃にとっても安息をもたらすものだったなら少しは良いんですが。

奥様&たろ

というわけで全員好きですけど私はやっぱり奥様推しです。お屋敷から出ない限り奥様とは神様。奥様のお言葉は神様のお言葉である!

「ゲームはね、その過程が楽しいの。勝敗のみを楽しんでしまったら、それは仕事だわ。
調教の過程。試行錯誤の過程。それが、楽しいの。全てが思い通りにいってしまったら、それは、ゲームではなくて、暇つぶし……だから妾は、驚きが欲しいの。分かる?」

「予定通りではない何かを。Sにとって、Mはただ従順なだけではつまらないの。ゲームは、クリアしてしまうのが一番寂しいでしょ? とくにこのお屋敷は永遠だから……永遠に続く、驚きを、“たろ”……妾に頂戴な」

「歯向かって。“たろ”。やってはいけないということをして。そうしたら……そうしたら、妾はこのお屋敷にある全ての装置を使って、あなたを責めるから」
「それが、妾とお前の絆。さあ。いけないことをして……」

あああああ奥様ぁぁん!!
お屋敷とは、そしてその“環”境を支配する奥様とは“世界”と“神様”の暗喩。そう考えて読むと、ああ確かに痛みも悲しみも、死の辛さすらも、全てに神様の愛が宿るもの。
そんな風にラベリングして、それを本当に信じ込むことが出来れば、この世は楽園になるのかもしれません。
『死ななきゃ辿りつけない天国なんて、この世じゃなんの価値もない。ねえ君は、君は、何を望むの?』
ゲームの最後に表示される、“そっち側”に行ってしまった“たろ”と“グモルク”からの無音のメッセージ。
ああしかし人はどうしてと問うことをやめられない。しかし何にでも幸せが宿るのならば、その苦悩もまた幸せなのだろうか。人間ということの。
つまり人間が、神に、愛されているのならば。でもそれは…。

OPの『トキのかたりべ』は名曲です。歌っているのは“奥様”の声を演じた人。
最後にその歌詞を引用して終わりたいと思います。

Turn Out 高い場所なら孤独に気付く Turn Up はるか遠くに語らう声を聞いた
雲の切れ間のぞき込む 人に、愛に、夢に巡り逢える
真白なカンバス見下ろした 人たちは嘘を見せ合いながら立ち尽くしていた
絶えまなく続く哀しみのうねり見つめたままで 
時のしずく落ちかけて 人も、愛も、夢も操られる
つたない言葉を響かせて 人たちはうそもつけないほどに疲れ果てていた
くずれゆく君よ…永遠にみえた名もなき君よ…
現在のかけら集めては 人を、愛を、夢を訪ね歩く

ああ…幾千の夜にうなされても ああ…生きることに囚われている

絶え間なく寄せる苦しみの波に揺られたままで
時のしずく落ちかけて 人も、愛も、夢も操られる
そして、雲の切れ間のぞきこむ 人に、愛に、夢に巡り逢うために

人は…

ううっ…(崩れ落ちる)